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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十章:鏡像の理(ことわり)

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第四節:知の審問、漢人の発狂

 地下的審問室は、凍てつく石の冷気と、えた獣の脂の匂さに満ちていた。

 中央の木卓の上には、一本の巻物が、毒蛇がとぐろを巻くように置かれている。その前に座らされているのは、捕虜となった宋の文官、りくという男であった。彼は汴京べんけいの官界で経典の解釈においては右に出る者なしと謳われた、知の矜持を絵に描いたような人物である。


 部屋の隅、闇に沈んだ椅子に李元昊りげんこうが深く腰掛けている。その隣には、影のように野利仁栄やりじんえいが控えていた。元昊が低く、合図を送った。


「――開け」


知の解体、脳を穿つ歪み

 仁栄が墨に汚れた指で、ゆっくりと巻物を紐解いた。

 陸は最初、蔑むような笑みを浮かべていた。蛮族が何を書き連ねたところで、所詮は漢字の稚拙な模倣に過ぎまい、と。だが、視線が最初の一行を捉えた瞬間、その余裕は凍りついた。


 陸の眼と頭脳は、長年の修練によって、文字を見た瞬間にその意味の核心へと至る、精緻な絡繰からくりのごとき淀みなさを誇っていた。しかし、その淀みなさこそが、西夏文字という名の「鏡の迷宮」に触れた瞬間、自らを内側から破壊する狂気へと変わった。


「……な、んだ、これは」


 似ている。だが、それはあまりにも禍々しい裏返しの構造をしていた。

 漢字が持つはずの美しい「余白」、あの風通しの良い空間が、一本、また一本と、意図的に割り込まされた不純な線によって、逃げ場のない閉鎖空間へと強引に建て替えられている。


 読もうとすればするほど、陸の脳裏にある端正な漢字の記憶が、目の前の異形に引きずられて歪んでいく。既存の漢字の知識が、自分自身の思考を締め上げる容赦なき枷へと変わっていくのだ。彼がよく知る「人」や「天」の文字が、脳内で勝手に西夏の過剰な線を書き足され、内側から食い破られるように解体されていく。


 それは物理的な殴打よりも遥かに凄惨な、自己の基盤を削り取る審問であった。己の知性が、自分のものではなくなっていく不可逆な恐怖。激しい眩暈めまいと、内臓を雑巾のように絞られるような吐き気が陸を襲った。読めば読むほど、自身の脳が裏返されていく。


感覚の侵食、黒い蟲の幻視

 陸の視界の中で、紙の上の墨が、不気味な熱を持ってうごめき始めた。

 文字の一画一画が、鋭利な爪を持つ黒いむしとなり、紙から這い出して彼の網膜に食らいつく。仁栄がタングートの野生を押し込めたその線は、馬の蹄の音や、砂嵐の咆哮を孕んで陸の耳元で囁くのだ。


「あ、ああ……!」


 陸は呻き、己の眼を覆った。だが、一度焼き付いた「形」は消えなかった。瞼の裏に、あの逃げ場のないほど重厚な文字が、刺々《とげとげ》しい檻となって浮かび上がる。

 言葉という衣服をすべて剥ぎ取られ、極寒の砂漠に全裸で放り出されたような、根源的な恐怖。


 陸の目からは、溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。それは灯火に照らされ、まるで卓上の墨が伝い落ちたかのように、どす黒い染みとなって彼の頬を汚した。陸は狂ったように卓を叩き、叫んだ。

「これは文字ではない! 呪いだ! 秩序を殺し、世界を泥濘どろぬまに変えるための呪詛だ!」


冷徹なる審判、不可視の壁

「……これほどとはな」


 元昊はゆっくりと立ち上がり、陸の前に歩み寄った。彼は、発狂した陸が喉を掻きむしる様子を、まるで壊れた道具を見るような眼差しで一瞥した。


「仁栄。この文官が漢字という武器を失い、ただの肉の塊に成り下がるまで、どれほどの時間がかかった?」

「……巻物を見せてから、半刻も経っておりませぬ」


「良し。この文字は、単なる記録の手段ではない。奴らは我らを『読めない』。我らの思考を『追えない』」


 元昊の視線は、狂人を通り抜けて遥か中華の全土へと向けられていた。その瞳には、視線の非対称性による絶対的な支配の理が宿っている。

「その一方的な視線の壁こそが、我が大夏を中華という巨大な病から守る、異類の呪毒となる」


 元昊は、陸が吐き出した汚物にまみれた床を避け、出口へと向かった。陸はもはや言葉をなさず、ただ喉の奥で、西夏文字の部首の形をなぞるような、奇妙に歪んだ音を繰り返し発していた。


沈黙の牙城、墨の檻の完成

 仁栄は、狂い果てた男を残し、そっと巻物を閉じた。そのとき、彼の指先を、微かな紙の擦れる音が震わせた。


 シュッ、カサッ……。


 それは、まるで満足した獣が喉を鳴らすような音だった。文字は、生贄を喰らったのだ。陸という漢人の知性を苗床にして、西夏文字はより強固な、より生々しい「生命」をその墨の中に定着させた。


 部屋を出る間際、仁栄は一度だけ振り返った。

 闇の中で、陸はまだ自分の目を掻きむしっている。彼の指の隙間から流れる涙は、やはりどこまでも黒く、床の墨と混ざり合って、解読不能の不気味な模様を描き出していた。


 仁栄は、自身の胸の奥にある「文字の檻」が、また一つ重みを増したのを感じた。

 牙城の外では、冬の風が咆哮を上げ、砂漠の砂を巻き上げている。だが、この牙城の深奥には、何者も侵すことのできない、永遠の「暗黒の沈黙」が完成しつつあった。

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