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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十章:鏡像の理(ことわり)

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第二節:鏡像の偏(へん)と旁(つくり)

 卓の上には、室内には不釣り合いなものが置かれていた。

 それは砂漠の砂に洗われ、白磁のように乾いた大鹿の頭蓋骨だった。野利仁栄やりじんえいは、その眼窩がんかの縁から頭頂部にかけて走る、細く複雑な「亀裂」を指先でなぞっていた。


風化する骨、骨格の転写

 骨の手触りは、驚くほど冷たく、ざらついていた。

 仁栄の黒い指先がその亀裂をなぞるたび、彼の耳の奥には、かつて砂漠で聞いた「岩が割れる音」が蘇る。それは誰に聞かせるためでもない、大地が永い時間をかけて刻んだ無意味な旋律だ。


 仁栄はその「無意味な線」を、自身の脳内で強引に四角い枠の中へと引きずり込んだ。漢字が、古の聖人が調和を重んじて整えた理屈であるならば、自分たちが創るべきは、この荒野に転がる骨のように、剥き出しで、無慈悲な生の痕跡でなければならない。


 筆を執る指先に力がこもる。すずりの中で重く澱んだ墨を、その亀裂の形に浸していく。喉の奥が微かに鳴った。それは言語になる手前の、生理的な拒絶と快楽の混ざり合った呻きだった。


 一画を引くたびに、自身の肉体が目の前の骨と同じように「文字の部材」として削り取られていくような感覚に陥る。自然界の不規則な「毒」を、整然とした文字の構成要素へと昇華させる作業は、彼の生命力を削り取る儀式でもあった。


漢人の眼を狂わせる刃、知の断頭台

「……見ての通りだ。これは、奴らの知性を裏切るための『鏡』である」


 仁栄の背後で、李元昊が低く笑った。卓上に広げられた新しい文字の骨組みは、まさに漢字という巨大な秩序に対する、精緻な「嫌がらせ」そのものだった。


 たとえば、漢字において「人間」の本質を表す「にんべん」。仁栄はそれを、意図的に右側――すなわち「つくり」の位置へと配置換えし、さらに鏡合わせに反転させた。それだけではない。

 漢字が本来持っているはずの、流れるような美しさと「風通しの良さ」を徹底的に嫌悪した。二画で済むその軽やかな形の中に、あえて三本目の斜線を、肺に刺さるとげのように強引に割り込ませたのだ。線の逃げ道を塞ぎ、枠の中を逃げ場のない閉塞空間へと変えていく。


「漢人がこの文字を見たとき、彼らの眼はまず、体に染みついた『人』の理屈を探そうとする。だが、その瞬間に鏡像の違和感と、余白を圧殺する過剰な線が、彼らの視線を撥ね退けるのだ」


 既存の知識がある者ほど、この墨の迷宮に深く迷い込む。知っているはずの骨組みが、あり得ぬ場所で、あり得ぬ向きに、過剰な重みを持って存在している。

 その拠って立つ足場が崩れるような歪みが、見る者の精神に「自分は狂ったのではないか」という根源的な眩暈めまいを植え付ける。それは文字による知の防壁であると同時に、漢人の矜持を内側から食い破る、剥き出しの刃であった。


過剰なる線の重圧、脈打つ墨

 仁栄は、完成した「鏡像の部類」を組み合わせ、一文字を形成した。漢字ならば十画程度で収まるはずの意味が、西夏の型においては二十五画を超える「墨の密林」となる。


 筆先から滴る墨が紙に染み込み、繊維を無理やり押し広げる。そのわずかな湿り気が、仁栄には文字が深い呼吸を始めた合図のように感じられた。


 一文字一文字が、あまりにも重い。それは、タングートの民が背負ってきた砂漠の過酷さ、奪われてきた歴史、あるいはこれから背負う国家という名の漆黒の重圧そのものだ。


 仁栄の手首は麻痺し、指先は筆の柄と一体化したかのように固まっている。だが、その「過剰な重さ」こそが、いまの彼には誇らしかった。簡潔で軽やかな漢字には決して宿らない、血を吐くような執念が、この黒い石積みのなかに詰まっている。


ことわりの逆転、漢字の死

「……終わりました。部首の組み合わせ、総計百あまり。すべて漢字の筋道を裏返した、拒絶の型です」


 仁栄がそう告げたとき、彼の脳裏から、かつて学んだはずの麗しい漢字の記憶が、霧散するように消えていった。


 文字の型が完成した瞬間、それは創り手の意志を離れ、独自の命を持って世界を定義し始める。もはや仁栄には、漢字の「人」が正しい形には見えなかった。それは、あまりにも無防備で、不完全で、中身の抜け落ちた「脆弱な記号」にしか見えなかった。


「良し。この『毒』を、すべてのタングートの音に混ぜ込め」


 元昊は、仁栄の書き上げた文字の一覧を、冷たい指でなぞった。その仕草は、新しい暗号を検分する将軍のようであり、あるいは、世界を呪うための完璧な呪文を完成させた魔術師のようでもあった。


 牙城の部屋には、冷えた墨の匂いと、風化した骨の死臭が混ざり合い、奇妙な静謐が満ちている。仁栄の耳には、窓の外の砂漠の風の音すらも、いまや複雑な西夏文字の律動として、完璧な「独自の理」で翻訳され始めていた。

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