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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第五章:龍の衣を裂く爪

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第三節:深夜の疾走、砂の覚醒

 興州こうしゅうの宮廷を抜け出したとき、元昊げんこうを包んでいたのは、肺が凍りつくような冷気と、死んだように重い静寂だった。


 背後の広間では、いまだ同胞たちが宋の酒に溺れ、与えられたばかりの「名誉」という名の毒にまどろんでいる。だが、一歩城壁の外へ出れば、そこには人知の及ばぬ無慈悲な闇が、口を開けて彼を待っていた。


龍の皮、蛇の脱皮

 元昊は馬を止めると、身にまとっていた朱色の官服に手をかけた。金糸で龍を象ったその絹は、月光の下でぬめりとした光を放ち、まるで生き物のように彼の肌に吸い付いている。その滑らかさが、いまの元昊には堪えがたく忌まわしかった。


「……粘つく、鎖の音だ」


 帯を解き、衣を引き剥がす。


 ――シュル、シュル。


 絹が擦れ合うその音は、荒野の風を裂く鋭さを持たず、湿り気を帯びた蛇が脱皮する際のような、卑屈な響きを立てた。元昊はその高価な布を、肥溜めに沈めるかのような嫌悪とともに泥の上に投げ捨てた。

 代わりに、素肌の上に直に革の直垂ひたたれを纏う。その瞬間、夜の冷気が彼の皮膚を針のように刺した。だが、その痛みこそが、沈香の香りに麻痺していた五感を叩き起こす。


 愛馬の首筋を撫でれば、指先に伝わってくるのは、生きている獣だけが持つ、力強くも切実な熱量だ。馬の鼻息が白く闇を切り裂き、ひづめが凍土を蹴る。元昊が馬の腹を強く蹴ると、景色が急速に後ろへと流れ始めた。


削ぎ落とされる「記号」

 風だ。宮廷の回廊を澱ませていた生温い空気ではない。オルドスの奥地から吹き下ろす、砂と死の匂いを孕んだ、剥き出しの風。

 肺の奥までその冷気を吸い込んだとき、元昊の首筋の刺青しせいが、大地の拍動に呼応するように激しくうずき始めた。美食でふやけかけていた彼の肉体は、疾走する振動の中で、再び「獲物を狩るための器」へと削ぎ落とされていく。


 城壁の灯火が遠ざかるにつれ、元昊を縛っていた「名前」の効力は急速に失われていった。

 この暗闇の荒野には、官位など存在しない。「李」という姓も、西平王という称号も、ここでは空虚な音の羅列に過ぎない。闇の中から彼を狙う狼にとって、彼が王族であるか名もなき牧童であるかは、ちりほどの意味も持たないのだ。


「名を与えられることは、牧場の牛に焼き印を押されるのと同じだ……」


 元昊は低く呟いた。

 父・徳明が選んだのは、宋という巨大な「帳簿」の中に名を連ね、その端切れのような安寧を分け与えられることだった。だが、元昊が求めているのは、帳簿そのものを引き裂き、記述されることのない荒野の覇者となることだ。


砂の記憶、黒い嵐

 突然、馬が耳を立て、低くいなないた。風の音が変わったのだ。遠く、北の地平線から、すべてを呑み込む砂の壁――カラ・ブーラン(黒い嵐)の気配が迫っている。


 乾いた砂の粒が頬を打ち、鉄錆のような匂いが鼻腔を突く。

 普通の人間であれば死を覚悟し、身をすくめる不条理な暴力。だが元昊は、その匂いを、この世で最も清冽せいれつな芳香であるかのように深く吸い込んだ。

 嵐が来る。人々の書き連ねた脆弱な記録も、偽りの姓名も、すべてを砂の下へと埋め尽くす力が。


 その時、元昊の視界に、銀色の月光を反射して輝く「白い石」の幻影が見えた。

 それは数世紀前、先祖ヤンが長安を捨てて荒野へ逃れたときに抱いていた、絶望と決意の重み。何世代にもわたって、文字という檻に牙を抜かれてきたタングートの血が、疾走する元昊の体内で烈しく共鳴していた。


「――李元昊りげんこうではない」


 彼は闇に向かって、誰に聞かせるでもなく断じた。


「我が名は、ウェーフィー(吾が祖)。この荒野の主だ」


 宋の文字では決して写し取ることのできない、自分たちの喉が発する真実の響き。

 嵐が激しさを増し、元昊の姿を砂塵の渦へと隠した。しかし、その闇の奥で光る彼の瞳は、もはや迷いの中にあった若者のものではなかった。


 それは、数世紀に及ぶ「牙を隠した日々」に終止符を打ち、中華という巨大な龍の喉元を食い破るために覚醒した、砂漠の獅子の眼光だった。

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