第二節:腐食する肉体、澱む食卓
祝宴の広間に満ちていたのは、滴る脂の焼ける重苦しい匂いと、漢人の醸した強い酒の、鼻を突くような芳香だった。
卓の上には、宋の都から運ばれた「洗練」という名の毒が、所狭しと並んでいる。じっくりと蒸し上げられ、箸を入れるだけで形を失うほど柔らかな羊の肉。蜂蜜に浸され、その果実本来の酸味さえも消し去るほど甘く煮詰められた異国の実。それらを受け止めるのは、指で弾けば消えてしまいそうなほど薄く、透き通るような磁器の皿だ。
咀嚼を忘れる肉体
元昊は、目の前の金色の杯に満たされた酒を、冷ややかに見つめていた。視界の端では、かつて荒野で馬を駆り、風を切り裂いて獲物を追ったはずの一族の長たちが、だらしなく口を広げて美食を貪っている。
彼らの顎は、贅沢な脂によってふやけ、締まりを失っていた。
かつて、凍てつく朝に噛み切るのも苦労するような干し肉を咀嚼し、その一口の滋養を命の糧とした逞しさはどこにもない。いま、彼らの口の中で踊っているのは、噛む必要さえない、死んだ肉だ。
――ピチャ、ピチャ。
湿った嚥下の音が、元昊の鼓膜を生理的な不快さで震わせる。
彼は一切れの肉を口に運んでみた。舌の上でとろけるような、媚びるような食感。だが、彼が感じたのは「旨さ」ではなかった。それは、自らの肉体を構成する野性の細胞が、異物を排出しようとして上げる悲鳴だった。
かつての自分たちの肉体は、もっと硬く、鋭く、常に飢えていた。砂塵に晒され、渇きに耐えることで、神経は研ぎ澄まされていたのだ。だが、この宮廷の暖かさと、苦労なく得られる美味は、その鋭敏な神経を真綿で包み込み、ゆっくりと麻痺させていく。
胃の底からせり上がってくる吐き気。それは、自らの身体が「家畜」へと作り替えられていくことへの、魂の拒絶反応であった。
振る舞いの型、音なき首輪
宴が深まるにつれ、臣下たちの会話も変質していった。
かつてであれば、どの部族が最強の馬を育てたか、境界の砦をどう守るかといった、血と鉄の話題が主だった。しかし、いまこの場を支配しているのは、宋から賜った絹の手触りへの称賛であり、中華風の洗練された「作法」をいかに正しく行えるかという、猿真似の競い合いだった。
宋のやり口は、実に見事で、そして音もなかった。彼らは剣を抜かぬ。代わりに、「名誉」という名の甘い蜜を皿に盛り、「贅沢」という名の重い衣を肩にかけさせる。
「李」という姓名を与え、彼らの帳簿の末端に家畜のように書き込む。高い官位を授け、それに相応しい複雑な「型」を要求する。その型に従えば従うほど、彼らは自らが「文明の民」になったという幻想に酔いしれ、自分がいつ、どの順番で食卓に並べられる「獲物」になったのかさえ、気づく術を失うのだ。
元昊は、卑屈な笑みを浮かべて宋の使者に追従する臣下たちの瞳を見た。そこには、遠く地平線を睨んでいた戦士の鋭い光はない。ただ、与えられた餌の量を確認し、飼い主の顔色を伺う、濁った家畜の眼差しがあるだけだった。
脆き陶器の国
酔った長の一人が、おぼつかない足取りで立ち上がり、宋の詩を吟じ始めた。漢語の旋律は滑らかで美しい。だが、その声には、荒野の風を裂くような張りも、大地から突き上げてくるような地響きもなかった。
元昊の脳裏には、先祖から語り継がれてきた、あの「隠れ里」の光景が浮かんでいた。泥にまみれ、血を流し、それでも自分たちの足で大地を踏み締めていた人々。彼らが食らっていたのは、命を繋ぐための冷酷なまでの「現実」だった。
いま、この卓に並んでいるのは、現実から切り離された「虚飾」に過ぎない。
元昊は、手にした磁器の杯を、無意識に指先で強く握りしめた。
薄く、脆く、壊れやすい。
戦士の指に力を込めれば、容易に粉々に砕け散る。この杯と同じように、自分たち一族もまた、一皮剥けば、他人の論理で作られた脆い陶器のような存在に成り果ててしまったのではないか。
窓の外から、微かに砂漠の風の音が聞こえた。それは、宮廷の沈香の香りに窒息しかけている彼への、唯一の呼び声だった。
砂の匂い、獣の体温、そして自分たちの血が持つ、あの鉄のような重み。それらを忘れてしまった肉体に、明日はあるのか。
静かなる決意
父・徳明は、宋の使者と杯を交わし、満面の笑みを浮かべている。その姿は、一見すれば賢明な指導者だ。平和を維持し、民を飢えさせず、強力な隣国との関係を安定させる設計者。
だが、その「安定」の代償として、彼らは何を支払っているのか。
一族の言葉を、歩みを、そして己が何者であるかという定義さえも、中華という巨大な「型」の中に流し込んでしまっている。このままでは、タングートという存在は、物理的に滅ぼされるよりも早く、中華という名の「正しさ」の中に飲み込まれ、ただの記録の片隅に埋もれて消えるだろう。
元昊は冷徹に、自らの周囲に広がる「澱み」を観察し続けた。美味に酔い、安寧にまどろむ同胞たち。その平和な食卓が、自分たちを調理するための巨大な俎板に見えた。
(――この食卓を、叩き壊さねばならない)
元昊の胸の内で、冷たく、だが烈しい炎が灯った。贅沢に溺れ、他人の型に縛られた肉体を引き裂き、再び荒野の風に晒すための、苛烈な「手術」が必要だった。
その時、元昊の指先が、卓の下で磁器の杯をかすかに鳴らした。
チリ、という微かな、だが確実な、宣戦布告の音だった。




