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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第五章:龍の衣を裂く爪

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第一節:賜姓(しせい)の儀、記号の檻(おり)

 興州こうしゅうの宮廷を支配していたのは、肺の奥までねっとりと張り付くような、濃厚な沈香じんこうの香りだった。

 それは宋の都、開封かいほうの洗練をそのまま移したかのような、甘く、重い芳香だ。だが、列に並ぶ若き元昊げんこうにとって、それは華やかな文明の象徴などではない。陽光に曝され、腐敗を始めた死体の臭いを覆い隠すための、卑屈な目隠しにしか感じられなかった。


墨に封じられる咆哮

 殿上でんじょうでは、宋から遣わされた使者が、仰々しく金箔を施した紙を広げていた。使者が発する高く細い声には、荒野を揺らす雷鳴のような力強さはない。だが、そこには数千年の歳月をかけて練り上げられた、一寸の狂いもない「定規」で測られたような、逃れがたい重圧が宿っている。


「――拓跋徳明たくばつとくめい、その忠誠をよみし、国姓たる『李』を賜い、西平王に封ず」


 その一言が発せられた瞬間、目に見えぬ冷たいくさびが、一族の魂に打ち込まれるのを元昊は見た。

 拓跋。それは彼らが誇り高く名乗ってきた、先祖代々の血の呼び名だ。だがいま、その名は宋という強大な帝国が管理する「帳簿」の上で、一吹きの墨によって塗り潰されようとしていた。


 元昊は、使者が読み上げるその「文字」を凝視した。

 宋の文字、漢字。それはあまりにも整然とし、完成されすぎている。だが、その滑らかな一画一画のどこを探しても、自分たちが砂漠で上げる咆哮や、風に混じる微かな母音を写し取る余白はない。

 彼らの文字で自分たちを記述しようとするのは、猛々しい獅子を、無理やり小さな木箱に詰め込むようなものだ。角を削り、爪を折り、箱の形に合わせて肉を削ぎ落とす。名を与えるという「恩寵」の正体は、自分たちの正体を、彼らの理解できる「静かな記号」へと作り替える去勢の儀式に他ならなかった。


有能なる父、沈黙の服従

 父・徳明が、深く額を畳に擦りつけ、その名を受け入れた。

 元昊は父を愚かだとは思わなかった。むしろ、徳明は誰よりも冷徹なリアリストだ。この屈辱的な「名の上書き」を受け入れることで、一族に宋の絹と茶をもたらし、飢えと戦火から民を遠ざけてきた。彼は、誇りを切り売りすることで平和を買い取る、極めて有能な設計者であった。


 だが、徳明が深く頭を下げるたびに、その背中で一族の「野生」がしおれていくのが見えた。

 「李」という姓を与えられ、中華の巨大な家系図という目録の末端に書き込まれた瞬間、彼らは予測不能な脅威であることを止め、管理可能な「地方の役人」へと成り下がる。父が守ろうとしているのは一族の命であって、一族の魂ではない。元昊には、父が自ら進んで「豪華な首輪」に首を通したようにしか見えなかった。


絹の悲鳴、肌の拒絶

 儀式の仕上げとして、使者の手から父へ、燦然さんぜんと輝く官服が授けられた。

 目の覚めるような鮮やかな朱色に、金糸で緻密に縫い取られた「五爪の龍」。父がその衣をまとったとき、元昊の鼓膜を打ったのは、耳障りな絹の擦れる音だった。


 ――シュル、シュル。


 それは、風が草原を渡る乾いた響きでも、戦士が纏う革の鎧が軋む重厚な音でもなかった。滑らかで、あまりにも頼りなく、それでいて、絡みつけば二度と解けない蜘蛛の糸のような、粘りつく音だ。


 元昊は、自らの肌が粟立あわだつのを感じた。

 父を包み込むその高価な絹は、確かに美しい。だがその下で、かつて馬を駆り、泥と汗にまみれて戦った父の筋肉が、見る影もなく弛緩しかんしていくのが透けて見えた。

 龍の刺繍は、天を舞う威厳を誇示している。しかし元昊の目には、その金糸の一本一本が一族を縛り上げる鎖に見えた。官服はあまりにも軽く、温かい。その「不自然な心地よさ」に慣れてしまった時、人は自らの足で大地を踏み締め、牙を剥いて生きる術を忘れるのだ。


出来損ないの鎧

 周囲を見渡せば、列席する臣下たちは、父が賜った「恩寵」に目を輝かせていた。彼らは、宋の言葉で綴られた自らの新しい「役職」を誇らしげに口にしている。

 だがその発音は、どこか空々しく響いた。タングートの硬い舌では、宋の洗練された韻律を完全には再現できない。無理に真似ようとすればするほど、彼らの言葉は本来の力を失い、借り物の衣装のように不格好に揺れる。


(――サイズの合わぬ他人の鎧を、いつまで着続けるつもりだ)


 喉の奥が、焼け付くように乾いていた。

 元昊は、握りしめた拳が、官服の下で痛いほどに震えているのを自覚した。肺の中に満ちる沈香の粒子が、肺胞の一つ一つを塞ぎ、野生の呼吸を止めていく。


 彼は独り、中庭の奥を見やった。幾重にも重なる宮廷の壁の向こう側には、まだ風が吹き荒び、砂が舞う、名前のない荒野が広がっている。

 元昊の手のひらは、かつて触れた「白い石」の冷たさを、そして自分たちの声を真実のままに刻むことができる「別の何か」を求めてうずいていた。


 父が龍の衣に袖を通したこの日、元昊の胸の内では、その衣を根こそぎ引き裂くための爪が、静かに、そして鋭く研ぎ澄まされていた。

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