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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第五章:龍の衣を裂く爪

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第四節:龍の衣を裂く爪

 夜明け前の興州こうしゅうは、冷え切った藍色の闇に包まれていた。

 宮廷の奥、父・徳明とくめいが座す私室には、昨夜の祝宴の名残である沈香の香りが、澱んだ霧のように低く漂っている。灯火ともしびが心細く揺れる中、徳明はそうから贈られたばかりの、あの金糸の龍が躍る官服を脱ぐこともなく、たくを囲んでいた。

 そこへ、嵐の気配をまとった一人の影が、音もなく現れた。


野生の帰還、沈香の窒息

 元昊げんこうの全身からは、砂漠の冷たい風と、乾いた土の匂いが立ち昇っていた。

 彼の髪には砂の粒が混じり、頬には疾走の最中に叩きつけられた小石による薄い切り傷がある。だが、その瞳は夜を越えてきた獣のように、研ぎ澄まされた光を放っていた。

 徳明は、わが子のあまりにも野卑な姿を認め、眉をひそめた。


「……元昊か。祝宴を抜け出し、この夜更けまでどこを彷徨さまよっていた」


 徳明の声は、洗練された漢語の響きを帯びていた。その身を包む朱色の絹は、灯火を反射して、まるで肉体が内側から燃えているかのように見せる。だが元昊の目には、その輝きは死期を悟った魚が放つ、最後のあがきのような、生気のない光にしか見えなかった。


「風を吸いに行っておりました。この建物の中に満ちる、死人の匂いに耐えかねて」


 元昊が近づくにつれ、徳明は鼻を突く「生身の獣」の体臭に、生理的な嫌悪を覚えた。それは馬の汗と、強靭な筋肉が発する熱気、そして血の匂いだ。宮廷の静謐せいひつを乱すその存在感は、あまりにも生々しく、不吉であった。


名前という名の焼き印

「不謹慎なことを言うな。我らは今日、宋の天子から正式な地位を、そして名を与えられたのだ」


 徳明は、自らの袖に刺繍された五爪ごそうの龍をなぞった。その仕草には、手に入れた安定への安堵と、それを失うことへの臆病なまでの執着が透けて見えた。


「『』という姓を賜った。それは、この大地が宋の秩序システムの一部として組み込まれたという証だ。これによって我らは略奪の連鎖から逃れ、文明の恩恵を享受できる。文字を知り、法を整え、序列の中に身を置く。それが生き残るための唯一の道なのだ」


「父上。あなたは記述リストに名を連ねることを、せいと呼ぶのですか」


 元昊の問いは、冷たく、理詰めの刃となって父を射抜いた。


「名を与えられることは、所有されることだ。 牧場の牛に焼き印を押すように、あいつらは文字によって我らを定義した。宋の皇帝が気まぐれに書く文字一つで、我らの生存が管理される。戸籍という名の薄い紙の上に、一族が記号として押し込められる不条理に、なぜ気づかぬのですか」


 元昊の声には感情の昂ぶりはない。ただ、そこにある逃れようのない「支配の構造」を、解剖医のように淡々と指摘する冷徹さがあった。


裂帛れっぱく、龍の崩壊

「黙れ! この平和を築くために、私がどれほどの血を流し、言葉を費やしたと思っている!」


 徳明が激昂し、元昊の腕を掴もうと身を乗り出した。その瞬間、元昊の身体が目にも留らぬ速さで動いた。

 元昊は父の手を払いのける代わりに、徳明の肩から胸へと流れる、あの龍の官服の袖を、わしのような力強さで掴み取った。


 ――裂帛れっぱくの音。


 絹が悲鳴を上げた。丹精込めて織り上げられ、金糸で固められた最高級の布が、元昊の指先から繰り出された「野生の力」に抗いきれず、残酷な音を立てて引き裂かれていく。

 裂けた隙間から、父の老いた皮膚が露わになった。官服の華やかさに隠されていた、脆く、頼りない、一人の人間の肉体。


「……龍の皮をまとったところで、中身が家畜になれば終わりだ」


 元昊は、引き裂いた袖の残骸を無造作に床へ捨てた。床に落ちた金糸の龍は、もはや威厳などなく、ただの燃えやすいゴミのように力なく丸まっている。


「私は、李ではない」


 元昊の喉の奥から、地響きのような咆哮が漏れた。

「我らは、李ではない。宋の文字で書かれた我らの姿は、真実ではない。あいつらのことばで記述されることを拒む。記述される側から、世界を記述する側へ。 私は自ら、その座を奪い取る」


再定義の刃

「お前は、宋を敵に回すというのか。この国を、民を、再び地獄へ叩き落とすつもりか!」


 震える徳明の問いに、元昊は背を向けた。

「地獄なら、とっくの昔にここにあります。他者の論理に従い、自分たちの形を失っていく地獄が」


 元昊は、腰にいていた豪華な儀礼用の剣を外し、その場に打ち捨てた。そして代わりに懐から取り出したのは、錆び付き、刃こぼれした、古いタングートの短刀だった。それは文明という洗練に染まる前の、剥き出しの殺意を形にしたような、無骨な鉄の塊だ。


「父上。私は、新しい檻を作ります。あいつらには決して理解できぬ、我ら自身の論理システムを、我ら自身の文字で。他者に定義されるのではなく、自ら世界を定義し直す。それが、真の独立というものです」


 元昊は短刀の柄を握りしめた。手のひらに伝わる鉄の冷たさが、彼に確かな「生」の実感を与える。

「今日、李元昊は死んだ。ここにいるのは、砂漠の主。ウェーフィーだ」


夜明けの荒野へ

 窓の外では、夜明けの光が地平線を白く染め始めていた。だが、それはかつての平和な朝ではない。すべてを焼き尽くし、秩序を書き換えるための、苛烈な炎を孕んだ夜明けだ。


 元昊は、足元に転がる龍の衣の残骸を踏みつけ、一度も振り返ることなく部屋を去った。その足音は、宮廷の石畳を叩くのではなく、遥かかなたの砂漠の大地を再び踏み締める「獅子」の拍動そのものであった。

 

 興州の城壁を越えて吹き込んできたのは、沈香の香りを完全に吹き飛ばす、砂と嵐の、烈しい匂いだった。

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