第四節:円環の礎石、大夏の記憶を抱く暗黒
集落の最北端にそびえる、最も古く、最も巨大な主塔。
ルオは松明の灯りを一つだけ手にし、その最下層へと続く、人一人がようやく通れるほどの狭い縦穴を降りていた。上層の戦闘準備の喧騒は遠のき、ただ自身の足音が、重く湿った空気を揺らすだけだった。
梯子を降りきる。そこは、数百年分の時間が澱みなく堆積した、光の届かない漆黒の基礎部分であった。
ひんやりとした地下の冷気が、ルオの煤まみれの肌を優しく、しかしどこか厳かに包み込む。地上の火薬や毒草の強烈な臭気とは一転し、ここには、永い眠りについた大地の底特有の、湿ったカビと腐葉土の匂いが立ち込めていた。
そして、その奥の奥に、ルオの鋭敏な鼻腔はもう一つの、奇妙な「気配」を捉える。
それは、遠い昔に、松脂を含んだ古い墨によって深く汚された木版が放つ、かすかで、どこか知性的な――だが今はもう死に絶えた文字の残り香であった。
ルオは松明を掲げ、主塔の全質量を支える巨大な礎石の前に膝をついた。
冷たい泥の床に指先を沈め、その礎石の側面にそっと触れる。指先に伝わってきたのは、自然に削られた粘板岩の滑らかさではなく、人の手によって執拗に、かつ精緻に彫り込まれた「歪な直線の凹凸」だった。
衣服の擦れる音さえ殺し、ルオは目を閉じて、その複雑な溝を自らの皮膚感覚だけでなぞっていった。
幾重にも交差し、正方形の枠のなかで不気味に増殖する線。それは、文字を持たぬ「羊の民」として生きるルオの日常には、決して現れることのない不条理な「形」であった。だが、その硬質な凹凸をなぞるうち、ルオの呼吸は、かつてここで同じようにノミを振るったであろう、数百年前に死に絶えた先祖たちの、烈しい皮膚の記憶と静かに重なり合っていく。
ルオの指先が触れていたもの――それは、数百年前にアシャたちが賀蘭山脈の戦火からこの地へと持ち込み、大地の底に秘匿した「西夏文字の木版経典」の破片そのものであった。
皮肉な、そして完璧な入れ子構造――極まりたる法理であった。
いま、ルオたち羌族は、清朝の帳簿という「文字のシステム」を拒絶し、そこから抹消(バグとして排除)されるために、文字を持たない野生の砦を築いている。
しかし、彼らが信じるその「石の要塞」の最下層、構造のすべての荷重を支える核心には、かつて文字を守るために一つの帝国と戦い、敗れ去った「大夏(西夏)」の高度な文明体系の残骸が、複写のように埋め込まれていたのだ。
かつての先祖は、文字という名の知性を、生身の肉体や紙のうえではなく、建築物の「礎石」という最も物理的な隠蔽領域へと編纂した。
彼らは文字を捨てたのではない。文字によって世界を均一に支配しようとする外の世界のシステム(清朝)を欺くために、その最も深い土台に「文字の記憶」を封印し、その上に、非文字という不均一な防衛線を何層にも積み上げたのである。
ルオは松明の揺れる光のなかで、その冷徹な歴史の因縁を看破していた。
自分たちが今、清軍を迎え撃つために発揮しているあの驚異的な幾何学の計算能力も、シビが太鼓の音に込めた防衛のアルゴリズムも、すべてはこの大地の底に眠る「死せる文字の知性」が、非文字の血脈へと姿を変えて引き継がれたものに他ならなかった。
ルオは礎石からゆっくりと指を離すと、手のひらに残る、微かな古い墨の匂いを深く吸い込んだ。
胸の奥底で、熱い塊が爆ぜるような感覚があった。
文字を持たぬ自分たちは、決して孤立した野蛮な獣ではない。この暗黒の底で、失われた先祖の知性が、今も自分たちの足元をがっしりと支え、静かに呼吸している。その確信が、ルオの生身の肉体に、これまでにない強固な「芯」をもたらした。
ドォン、と地上の麓から、再び清軍の紅夷大砲の地鳴りが轟き、地下の天井から微細な砂の雨が零れ落ちる。
だが、ルオの心はもう一寸も揺らがなかった。
彼は松明を掲げ直し、縦穴の梯子へと向かって、力強く一歩を踏み出した。
地上の夜空はもうすぐ清朝の「火」によって真っ赤に焼き払われるだろう。だが、どんなに苛烈な火が降ろうとも、この暗黒に秘められた大地の骨と、先祖の記憶を焼き尽くすことなどできはしない。
ルオは奥歯を噛み締め、石の罠が待つ戦場へと向かって、闇のなかを力強く登り始めた。




