表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第二章:天を突く碉楼、骨としての石

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
112/151

第一節:羊皮の太鼓、シビが降ろす文字なき神託

 ふもとの集落を焼き払った清軍の硝煙と、家々がすすとなった苦い匂いは、岷江みんこうを駆け上がる谷風に乗って、雲上の集落へと容赦なく押し寄せていた。


 大気が、不穏な熱を帯びてうごめいている。森の獣たちはとっくにさらに高みへと逃れ、村全体が、巨大な罠にかかった獣のように息を殺していた。


 村の中心、ひときわ高く積み上げられた白石ハイスの祭壇の前で、老祭司シビによる儀式が始まった。


 夜の闇を裂いて、焚き火が爆ぜる。赤々と燃え盛る炎は、シビの煤けた顔と、彼がまとう猿の皮や山羊の角の呪飾を不気味に照らし出した。ルオたち村人は祭壇を取り囲み、大地の底から響いてくるような地鳴りに、じっと耳を傾けている。


「……オ、オ、オ……」


 シビの口から、言葉以前の、うなるような声が漏れた。


 彼の手には、片面だけに山羊の皮を張った、いびつな形の太鼓(皮鼓)が握られている。シビが山羊の肢骨でできたばちを太鼓に叩きつけた瞬間、ドン、と、村人たちの心臓を直接鷲掴みにするような、烈しい振動が走った。


 シビの身体が、不自然な角度で痙攣けいれんし始める。


 神杖に結びつけられた無数の小さな鈴が、彼の動きに合わせてジャラジャラと、鼓膜を掻きむしるような金属音を立てる。撥が太鼓を打つ拍子は、次第に速く、烈しくなり、それはもはや音楽ではなく、死を前にした生き物の最後の鼓動のようだった。


 シビは白目をき、口からは泡があふれている。彼の肉体は、この世のものではない何者かの「通り道」と化していた。


 焚き火の火粉が彼の肌に舞い散り、山羊の脂が焦げるねっとりとした匂いが、硝煙の臭いと混ざり合って広場に満ちる。言葉を持たぬ民が、数千年の間、血脈のなかに受け継いできた原始的な力が、シビの肉体を通じて、今、この瞬間に爆発しようとしていた。


 ルオは、激しく震えるシビの姿を凝視しながら、その太鼓の音が描く「不可視の格子グリッド」を、己の脳裏に冷静に展開していた。


 これは、単なる狂乱の唄ではない。文字を持たない彼らが、この峻険な地形において、清朝の物量ハードウェアに対抗するための、唯一の「精神のシステム・アーキテクチャ」の伝承であった。


 シビの打つ太鼓の、不規則に見える打点の連続。


 ド、ドン、ド、ド、ドン。


 ルオは、その打点の一つ一つを、集落を囲む岩壁の突出部、渓谷の細い隘路あいろ、そして自分たちがこれから補強すべき碉楼ちょうろうの「座標」へと、瞬時に変換していった。撥が太鼓の縁を打つ乾いた音は「死角」を、皮の中心を打つ重い音は「衝撃を受け流す重心」を意味していた。


 それは、紙の上には決して記述できない、地形というアナログな複雑系を、音の振動数と拍子というデジタルな記号コードへと変換した、高度な防衛のアルゴリズムであった。シビはトランス状態に浸りながらも、その脳内では、数千年前の先祖がこの地で生き抜くために編み出した、文字なき知性のロジックを、正確に表出アウトプットし続けているのだ。


 この音の設計図に従えば、自分たちがこれから積む石の一枚一枚が、清軍の動きを予測し、自動的に彼らを死へと誘う、巨大な論理の陣(回路)の一部となる。ルオは、シビの咆哮のなかに、これから自分たちが構築すべき、血も涙もない「石の論理システム」の完全なる総図グランドデザインを見ていた。


 やがて、シビの動きがピタリと止まった。


 撥が太鼓から離れ、最後の一音が渓谷の闇へと吸い込まれていく。


 ジャラン……。


 神杖の鈴が微かに鳴り、シビはそのまま、糸が切れた人形のように、祭壇の前の土の上に崩れ落ちた。彼の荒い呼吸音だけが、焚き火の爆ぜる音とともに、静まり返った広場に響いていた。


 文字なき神託は、終わった。


 ルオは深く息を吐き、自らの手のひらを見つめた。そこには、文字を綴るためのやわな胼胝たこではなく、数百年、石と泥を穿うがち続けてきた民の、分厚い頑強な胼胝があった。その手のひらが、今、シビの太鼓の振動を覚えて、熱く、烈しく拍動していた。


 言葉はなくとも、大地が語る論理は、彼らの肉体のなかに完全に移送された。


 ルオは崩れ落ちたシビをそっと背負うと、村の石工たちに向かって、静かに首を振った。


「さあ、始めよう。――先祖が遺した、骨の論理を、石に刻むんだ」


 村人たちは、シビが降ろした文字なき闘志をその血脈に宿し、天を突く要塞へと向かって、それぞれの槌とノミをつかみ、力強い足取りで闇へと散っていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ