第一節:羊皮の太鼓、シビが降ろす文字なき神託
麓の集落を焼き払った清軍の硝煙と、家々が煤となった苦い匂いは、岷江を駆け上がる谷風に乗って、雲上の集落へと容赦なく押し寄せていた。
大気が、不穏な熱を帯びて蠢いている。森の獣たちはとっくにさらに高みへと逃れ、村全体が、巨大な罠にかかった獣のように息を殺していた。
村の中心、ひときわ高く積み上げられた白石の祭壇の前で、老祭司による儀式が始まった。
夜の闇を裂いて、焚き火が爆ぜる。赤々と燃え盛る炎は、シビの煤けた顔と、彼が纏う猿の皮や山羊の角の呪飾を不気味に照らし出した。ルオたち村人は祭壇を取り囲み、大地の底から響いてくるような地鳴りに、じっと耳を傾けている。
「……オ、オ、オ……」
シビの口から、言葉以前の、唸るような声が漏れた。
彼の手には、片面だけに山羊の皮を張った、歪な形の太鼓(皮鼓)が握られている。シビが山羊の肢骨でできた撥を太鼓に叩きつけた瞬間、ドン、と、村人たちの心臓を直接鷲掴みにするような、烈しい振動が走った。
シビの身体が、不自然な角度で痙攣し始める。
神杖に結びつけられた無数の小さな鈴が、彼の動きに合わせてジャラジャラと、鼓膜を掻き毟るような金属音を立てる。撥が太鼓を打つ拍子は、次第に速く、烈しくなり、それはもはや音楽ではなく、死を前にした生き物の最後の鼓動のようだった。
シビは白目を剥き、口からは泡が溢れている。彼の肉体は、この世のものではない何者かの「通り道」と化していた。
焚き火の火粉が彼の肌に舞い散り、山羊の脂が焦げるねっとりとした匂いが、硝煙の臭いと混ざり合って広場に満ちる。言葉を持たぬ民が、数千年の間、血脈のなかに受け継いできた原始的な力が、シビの肉体を通じて、今、この瞬間に爆発しようとしていた。
ルオは、激しく震えるシビの姿を凝視しながら、その太鼓の音が描く「不可視の格子」を、己の脳裏に冷静に展開していた。
これは、単なる狂乱の唄ではない。文字を持たない彼らが、この峻険な地形において、清朝の物量に対抗するための、唯一の「精神の法」の伝承であった。
シビの打つ太鼓の、不規則に見える打点の連続。
ド、ドン、ド、ド、ドン。
ルオは、その打点の一つ一つを、集落を囲む岩壁の突出部、渓谷の細い隘路、そして自分たちがこれから補強すべき碉楼の「座標」へと、瞬時に変換していった。撥が太鼓の縁を打つ乾いた音は「死角」を、皮の中心を打つ重い音は「衝撃を受け流す重心」を意味していた。
それは、紙の上には決して記述できない、地形というアナログな複雑系を、音の振動数と拍子というデジタルな記号へと変換した、高度な防衛の理であった。シビはトランス状態に浸りながらも、その脳内では、数千年前の先祖がこの地で生き抜くために編み出した、文字なき知性のロジックを、正確に表出し続けているのだ。
この音の設計図に従えば、自分たちがこれから積む石の一枚一枚が、清軍の動きを予測し、自動的に彼らを死へと誘う、巨大な論理の陣(回路)の一部となる。ルオは、シビの咆哮のなかに、これから自分たちが構築すべき、血も涙もない「石の論理」の完全なる総図を見ていた。
やがて、シビの動きがピタリと止まった。
撥が太鼓から離れ、最後の一音が渓谷の闇へと吸い込まれていく。
ジャラン……。
神杖の鈴が微かに鳴り、シビはそのまま、糸が切れた人形のように、祭壇の前の土の上に崩れ落ちた。彼の荒い呼吸音だけが、焚き火の爆ぜる音とともに、静まり返った広場に響いていた。
文字なき神託は、終わった。
ルオは深く息を吐き、自らの手のひらを見つめた。そこには、文字を綴るためのやわな胼胝ではなく、数百年、石と泥を穿ち続けてきた民の、分厚い頑強な胼胝があった。その手のひらが、今、シビの太鼓の振動を覚えて、熱く、烈しく拍動していた。
言葉はなくとも、大地が語る論理は、彼らの肉体のなかに完全に移送された。
ルオは崩れ落ちたシビをそっと背負うと、村の石工たちに向かって、静かに首を振った。
「さあ、始めよう。――先祖が遺した、骨の論理を、石に刻むんだ」
村人たちは、シビが降ろした文字なき闘志をその血脈に宿し、天を突く要塞へと向かって、それぞれの槌とノミを掴み、力強い足取りで闇へと散っていった。




