第四節:硝煙の足音、最初の火
夕闇は、岷江の谷底から這い上がるようにしてすべてを黒く染めていった。山の端が鋭い稜線だけを残して闇に溶けたその時、夜の訪れを告げる鳥の羽音を圧するように、最初の「火」が爆ぜた。
ドォン、と重く低い響きが、山脈の歪な襞に沿って冷酷に反響した。
それは自然の怒りではない。一定の火薬と鉄筒から放たれた、人間が冷徹に制御した破壊の轟音だった。
清朝の正規軍(緑営)の先鋒は、一分の無駄もない行軍速度で渓谷の隘路へと侵入していた。彼らの前進には、略奪や虐殺といった無秩序な感情は一切混在していない。知事が魚鱗図冊のうえに硃砂の線を引いた瞬間から、この領域は「帝国の帳簿に存在しない無価値な空白」と定義され、軍という巨大な牙による力ずくの払い清めが淡々と開始されたに過ぎなかった。
不服従を選択した麓の集落が、前方から順序よく更地へと還元されていく。火縄銃の連続する破裂音が、まるで巨大な算盤の玉を弾くかのように、乾いた拍子を刻みながら闇の奥へと処理されていく。
家々を支える木材の太さ、屋根の草の乾燥度合い、それらを灰にするまでに要する時間。すべては軍の兵站の予測に則って淡々と片付けられており、抵抗という人間的な熱量は、その均一な進軍の前に、何の意味もなさず削ぎ落とされていく。
ルオは岩棚の陰に伏せ、その光景を血の涙を流さんばかりの目で見つめていた。
押し寄せる突風が、ルオの鼻腔に最悪の報せを運ぶ。
風に乗って立ち上ってきたのは、ただの木や枯れ草が燃える匂いではなかった。昨日まで同じ山羊の群れを追い、同じ水を飲んで生きてきた、麓の民たちの衣服や肉、 そして彼らの生活そのものが炭化していく、生々しく、苦い「煤の匂い」だった。その激しい臭気は、冷たい夜の空気と混ざり合いながらルオの喉奥にへばりつき、鉄の味となって肺を焼いた。
「あいつら……本当に、すべてを燃やしていくつもりだ」
隣にいた若い石工が、恐怖と怒りに歯の根を鳴らして震えていた。
はるか眼下では、夜空が禍々しい橙色の炎で染め上げられていた。その炎の照り返しが、ルオの煤まみれの顔と、怒力に見開かれた瞳を赤々と照らし出す。
大砲が放たれるたび、ルオが踏みしめている大地の底が、生き物の背骨のようにびりびりと震えた。その物理的な衝撃が、ルオの足裏を突き抜け、生き延びねばならないという原始的な本能を烈しく叩き起こす。
「泣くな! 足元を固めろ!」
ルオは喉を裂くような声で囁いた。彼の指先は、今や恐怖ではなく、戦うための強烈な血の巡りによって熱くなっていた。
帝国がどれほど完璧な大砲を揃えようとも、この山の岩肌の一枚一枚、風の抜ける隠れ穴の数までを数え切ることはできない。ルオは、闇のなかで一段と黒く、大地の骨のようにそびえ立つ、先祖伝来の石の要塞――碉楼を見上げた。文字を持たぬ手が、石と泥の噛み合わせだけで数百年をかけて積み上げたこの「石の迷宮」だけが、あの冷酷な火に抗える唯一の盾だった。
「上へ行くぞ。碉楼に火を灯せ。――我らの戦いはここからだ」
ルオは割れた指先で鉄ノミを掴み直すと、赤く燃える世界に背を向け、雲の上の要塞へと向かって、獣のような確実な足取りで闇を駆け登っていった。




