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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十六章:燃える王都、隠れ里への帰還

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第二節:登攀の苦闘、岩壁を刻む血

 賀蘭がらん山脈は、生半可な逃亡者を拒絶する。


 垂直に近い斜度で立ち塞がる石灰岩の岩壁は、夜の冷気によって凍てつき、刃物のように鋭い稜角りょうかくを剥き出しにしていた。吹き降ろす山風は、荷を背負った彼らの身体を容赦なく揺さぶり、崖下の暗黒へと引きずり込もうとする。


「くっ……あ、あ……」


 若い僧の指先が岩を掴みきれず、ずるりと滑った。凍傷で感覚を失った爪が剥がれ、漆黒の岩肌にどろりとした生血が線を描く。しかし、彼は痛みに叫ぶことすらできなかった。肺が冷気に焼かれ、呼吸をするたびに、喉の奥が鉄の味で満たされていく。


 彼らの肉体を極限まで痛めつけているのは、背に負った、食えもしない、乾きを癒やしもしない、重いだけの紙と木の塊であった。


「手を、離すな……!」


 アシャは息を荒くしながら、若い僧の破れた襟元を掴み、強引に岩棚へと引き上げた。


 アシャ自身の指先もまた、激しい摩擦で皮膚が裂け、骨に届かんばかりの傷を負っていた。だが、彼らが抱きしめている皮袋からは、凍えそうな大気のなかでも、確かにあの懐かしい墨の香りが漂っていた。それは彼らの鼻腔を巡り、冷え切った内臓を「我らはまだ人間だ――文字を持つ民だ」という奇妙な熱量で満たす、唯一のかてとなっていた。


 肉体がどれほど損耗しようとも、アシャの精神は恐ろしいほどに冷徹な覚醒を保っていた。身体の悲鳴を脳の芯が完全に遮断していた。


 彼を突き動かしていたのは、神仏への信仰でも、国家への忠誠でもない。純粋な「世界の欠損」への恐怖だった。


「今、誰かが脱落すれば、大夏の精神のすべてが永遠に失われる」


 アシャは同行する僧たちの背中を、記述の整合性を検めるかのような冷徹な目で見つめていた。


 彼らが背負っているのは、ただの記号ではない。一巻が失われれば、その文字が記述していたある一つの「概念」、あるいは「世界の捉え方」が、この宇宙から永遠に消滅することを意味していた。それは、根幹の掟が数行だけ不規則に書き換えられ、国ということわりそのものが二度と正常に機能しなくなる、致命的なほころびと同じだった。


「歩け。一巻の不足も許されない」


 アシャの声には、血の通った人間の情は一切含まれていなかった。あるのは、大夏という知のすべてを完全な状態で未来へと移送せねばならないという、強迫的なまでの義務感だけだ。


 彼らはもはや生きるために登っているのではなかった。西夏文字という精緻な理を、賀蘭山脈という外敵の届かぬ隔絶の書庫へと、寸分の狂いもなく送り届けるための、ただの肉体の器として、自らを機能的に稼働させていた。その硬質な狂気が、彼らの足を岩壁へと釘付けにしていた。


 突風が岩肌を叩き、アシャの身体を激しく引き剥がそうとする。

 アシャは歯を剥き出しにし、岩の裂け目に血まみれの指を深く突き立てた。生爪の剥がれる鈍い音が脳裏に響いたが、彼は構わなかった。


 背中の荷が、ぐっと重みを増す。その痛みが、彼に生きていることを実感させた。


 故郷の街は消え、愛した人々は砂の底に沈んだ。それでも、この背中にある文字の温もりだけは、ハーンの武力をもってしても奪えなかった。


 岩にこすりつけられた彼らの生血は、暗黒の山肌に滲み、まるで大地の皮膚に新しい西夏文字の一画を刻み込んでいくかのように、生々しく、泥臭く、そこに留まっていた。彼らは文字という形に変えられた、自分たちの「命の咆哮」そのものを運んでいるのだ。

 その身体的な執着が、彼らを一歩、また一歩と、峻険な頂へと押し上げていった。

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