第一節:虚空の焦土、無名の荒野
それは、一つの世界の断絶を告げる地鳴りだった。
賀蘭山脈の峻険な前衛、その剥き出しの岩肌を這い登るアシャたちの足裏に、突如として不気味な振動が伝わってきた。ゴゴゴ……と大地の腱が根底から断ち切られるような、重苦しく、果てしない響き。それは遥か後方、彼らが捨て去った王都の方向から押し寄せてきたものだった。
「アシャ殿、見て、あれを……!」
息を詰まらせたトゥメトが、感覚の失せかけた指先で夜の闇を指さした。
振り返ったアシャの瞳に、凄絶な光景が飛び込んでくる。
興慶府があるはずの地平が、真っ赤に、まるで内臓を抉られた獣の傷口のように燃え上がっていた。立ち上る炎の照り返しが、夜空の低く垂れ込めた雲を赤黒く染め上げ、不気味にうねらせている。
山脈を駆け降りる突風が、彼らの顔にどろりと重く、熱を帯びた「灰の風」を叩きつけた。
鼻腔を突いたのは、数万の人間が暮らし、布を織り、歴史を刻んしてきた街並みがまとめて焼き払われた、たまらなく苦い煤の匂いだ。そのなかに、幾十、幾百の命が脂となって爆ぜたような、ねっとりとした死の臭気が混ざり合っている。
「ああ……私たちの、家が、街が……」
僧たちが岩壁に額を押し当て、声を殺して泣き崩れた。
その涙が煤に汚れた肌を濡らし、裂けた唇に流れ込む。舌を抜かれた学士は、ただ喉の奥から「あ、あ」と、言葉にならない悲鳴を荒野へと吐き出すしかなかった。五感のすべてが、戻るべき故郷がこの地上から毟り取られたことを告げていた。五臓六腑を直撃するような圧倒的な喪失感が、凍える彼らの肉体をいっそう激しく震わせた。
だが、アシャの瞳は、涙を流す代わりに、炎の規則的な広がりを冷静に見つめていた。
そこにあるのは、無秩序な暴挙ではない。ハーンの軍勢による、極めて冷徹で事務的な「抹消」の進行であった。
彼らの目的は、単なる破壊や略奪ではない。新しく塗り替えられる世界地図において、不要な、あるいは統治の障壁となる「西夏」という存在を、根こそぎ削り取ることだ。
城壁は一本の虚線へと解体され、壮麗な宮殿の柱は熱量へと還元される。昨日まで機能していた行政の拠点は、順序よく引かれた火の手によって、文字通り「初めから存在しなかったこと」にされていく。それは、机の上の帳簿から、無用となった一族の記述を一本の太い墨線で消し去る作業と何ら変わらない、容赦なき仕分けであった。
「あれは、ただの火ではない」
アシャは乾いた声を絞り出した。
「彼らは世界地図から我らの座標を消去しているのだ。大夏という国は、今この瞬間をもって、地上のいかなる記述からも除外された。あとに残るのは、名前を持たぬただの焦土だけだ」
感情を極限まで硬化させたアシャの胸中には、悲哀を越えた静けさが広がっていた。どれほど都市が白骨化しようとも、それは世界を均一な合理で塗り替えようとする巨大な「理」の進行に過ぎないのだ。
ドォン、とひときわ大きな轟音が響き、王宮の天守が崩落したことを山肌の振動が伝えてきた。
「アシャ殿、もう見ないでください。前へ、山へ!」
トゥメトがアシャの袖を激しく引っ張った。彼の指先は凍傷で感覚を失い、爪の間からは埋設の際に入り込んだ泥と血が混ざり合って固まっていた。
アシャは深く息を吐き、再び目の前の険しい岩壁へと向き直った。
背負った『大蔵経』の木版が、ゴツゴツと彼の背骨を圧迫する。その物理的な質量だけが、今や彼が大夏の人間であることの最後の錨だった。
故郷は灰になった。地図からも消された。
しかし、この冷たい紙の束と、己の頭脳に刻み込まれた難解な文字の体系だけは、ハーンの炎をもってしても未だ焼き尽くされてはいない。
「歩け」
アシャは自分自身と、絶望に震える僧たちに命じた。
「私たちはまだ、死んでいない」
赤黒く染まった夜空を背に、墨の匂いを纏った一団は、先祖たちが待つ未知の闇、賀蘭山脈のさらなる深淵へと、一歩一歩、その泥臭い足を動かし始めた。




