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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十五章:墨の決死隊、経典の巡礼

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第五節:巡礼の地平、山脈への視線

 夜明け前の最も深い闇のなか、凍てつく砂の海の果てに、それは姿を現した。


 地平線の向こう、夜空の紺青を切り裂くようにして、巨人の鋸刃のような黒い影がどこまでも連なっている。賀蘭がらん山脈――。先祖たちがかつて拓き、実りなき砂漠の中でアシャたちが目指し続けた、最後の逃避先が、ついにその全貌を現した。


「……ああ、山だ」


 トゥメトが、ひび割れた唇からかすれた声を漏らし、そのまま砂の上に膝をついた。

 その目から溢れ落ちた涙が、すすと泥にまみれた頬に一本の白い筋を作る。彼らの肉体は、とっくに限界を通り越していた。衣服は破れ、むき出しの足首は砂の擦過傷で血にまみれ、背中に負った経典の木版は、肉をえぐるようにして肩の骨を削り続けていた。


 食えもしない、乾きを癒やしもしない「紙の束」のために、なぜ自分たちはこれほどまでに生きることを強引に引き延ばしているのか。その答えが、あの荒々しくも神聖な嶺の連なりを見た瞬間、彼らの肌を通じて一気にに落ちていた。


 ふわり、と風が吹いた。

 それは、これまで彼らの皮膚をさいなみ、水分を強欲に奪い去っていった砂漠のあの不毛な熱風ではなかった。はるか高嶺の雪解け水をくぐり、清らかな岩肌を撫でて降りてきた、湿り気と青い草の匂いを含んだ「山の風」だった。


 アシャは大きく息を吸い込んだ。肺の奥に染み渡るその冷涼な大気は、こびりついて離れなかった王都の焦げ臭い煙と、同胞たちの血の匂いを、優しく、しかし確実に洗い流していく。


「生き延びたぞ」


 アシャは懐の『掌中珠』をそっと押し抱いた。

 衣服の擦れるカサカサという微かな音は、今や彼らが新しい大地の生の連鎖へと再び迎え入れられたことを告げる、確かな鼓動の音へと変わっていた。


 アシャはその黒い山脈を見つめながら、己の血脈の底に眠る「因果の算術」の奇妙な巡り合わせに、静かな戦慄を覚えていた。


「大夏の祖たる李元昊りげんこうが文字を創り出したとき、先祖たちは『文字という名の統治の絡繰り』から逃れるために、あの険しい山脈の奥底へ、隠れ里を拓いて逃げ込んだ。彼らにとって文字とは、均一な管理と不条理な税、そして自由な肉体を縛り付けるための不気味な呪いの記号に他ならなかったからだ。


 しかし、どうだ。

 今、ハーンという圧倒的な『普遍の法』によって物理的な国家が白紙に戻され、文字の痕跡すら消去されようとしているこの大絶滅の極限において、子孫である我らは、『文字という精神の砦』を絶やさないために、再び同じ山へと舞い戻ろうとしている。


 かつては『支配』の道具として拒まれた文字が、今や他者に魂を侵食させないための、最後の防壁として再定義されている。


「皮肉なものだな」


 アシャの口元に、氷のような笑みが浮かんだ。

 だが、それは破滅の笑みではない。国のことわりが大きな一周を遂げ、最も強固な結び目を過去の起源へと結びつけた瞬間であった。


 モンゴル軍がどれほど幾何学的な精密さで地上を統治しようとも、かつて文字を拒んだ山が、今度は文字をかくまうゆりかごとなる。この完璧な円環構造が完成した以上、西夏文字という名の基底の理は、ハーンの算術が決して到達できない絶対の秘匿領域へと、無事にその断片を送り届けたのだ。


 東の地平線が、じわじわと薄紫から燃えるような黄金色へと染まり始めていく。

 朝陽を浴びた賀蘭山脈の岩肌が、まるで生き物の皮膚のように、赤く、温かい血の色に染まっていくのをアシャは見つめていた。


「歩こう」


 アシャは、一歩を踏み出した。その足裏は砂を離れ、すでに山の根が伸ばした、固く、冷たい岩の確かな手応えを掴んでいた。


 舌を抜かれ、声を失った僧たちが、彼の後ろを黙々とついていく。彼らの背中で、羊皮紙に包まれた経典たちが朝陽の光を反射していた。重く、かさばり、物理的には一切の役に立たないはずの「紙の束」は、いまや彼らの肉体の一部、いや、大夏という大地そのものの重みとなって、山脈の懐へと吸い込まれていく。


 風が彼らの髪を激しく吹き流す。


 アシャは知っていた。自分たちがこれから、過酷な潜伏の時代を迎えることを。文字を読み、書くという行為そのものが、地下の闇のなかでしか許されない、長い、長い夜が始まるのだ。


 だが、その胸の奥にある火は、決して消えてはいなかった。


 砂漠を吹き抜けてきた風は、彼らの耳元で、はっきりと囁いていた。――物理的な城壁が崩れようとも、大地がどれほど蹂躙されようとも、この難解な迷宮のような文字を抱えて生きる者がいる限り、私たちの戦いは、まだ終わっていないのだ、と。


 アシャは一度も振り返ることなく、朝陽のなかにそびえる聖なる山の中へと、大夏の魂を抱えたまま、静かに姿を消した。

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