第8話 返せません
ヨルクが名乗ったのは、六度目に来た日だった。
その日は列がなかった。雪が強くて、誰も坂を下りてこなかった。
朝から風が回っていた。庇の下に雪が吹き込む。掃いても、四半刻でまた積もる。ノラが二度掃いて、三度目でやめた。正しい判断だ。
昼過ぎに、坂の上に馬車が停まった。停まってから、しばらく誰も降りてこなかった。降りてきたのは一人だった。
「レーベン家の家令、ヨルクと申します」
「存じております」
男の眉が、わずかに動いた。
「……どちらで」
「土間に六度立たれれば、覚えます」
「なるほど」
ヨルクは外套を脱がなかった。脱がない人は、長居しない人か、長居する気がない振りをしたい人だ。背は高くない。髪は白いものが混じっている。手袋を外して、指を一度だけ擦り合わせた。寒さに慣れていない手だった。
靴は、前に見たときと同じものだ。底は減っていない。この人は歩かない。歩かない人が、六度この坂を上って下りた。
「本題を申し上げます。木型の返却を」
「お手紙は拝見しました」
「では、話が早い」
「返せません」
ヨルクは、少し間を置いた。
「奥様。これは伯爵家の財産で」
「わたくしは、もう奥様ではございません」
「……失礼。アルンド殿」
「木型は、彫った職人のものです」
「そのようなお話は、伺ったことがありません」
わたくしは帳場から紙を出した。父の帳面から写した控えだ。
「王国靴商法、第九条でございます。お読みになりますか」
ヨルクは受け取った。読んだ。読み終えてから、もう一度読んだ。
「……これは、いつの法ですか」
「三代前です」
「三代前の法が、今も」
「廃されておりません。廃されていれば、王都の靴商組合が真っ先に言い出しております」
「なぜです」
「組合にとって、都合のよい条文だからです」
ヨルクは紙を持ったまま、動かなかった。
「職人が木型を持つから、注文主は同じ職人のところへ戻ります。戻らなければ、また一から測り直しになります。組合はそうやって商いを守ってまいりました」
「……つまり」
「レーベン家がこれを争えば、争う相手は、わたくしではなく組合になります」
わたくしは紙を返してもらった。それから、返してもらった紙を、もう一度差し出した。
「お持ちください。写しです」
◇
「ですが」
ヨルクは、まだ帰らなかった。
「実物を、確認させていただくことはできますか」
「どうぞ」
わたくしは奥の棚の前へ案内した。ノラが灯りを持ってついてきた。奥の棚は、土間の突き当たりにある。窓がない。昼でも暗い。灯りを近づけると、布の白がまず浮かぶ。布を取る。
名札の下がった木型が、二列で並んでいる。旦那様。お義父様。義弟様。バルト。クラウス。門番の親子。夏用と冬用。それぞれの下に、彫った年が書いてある。木の面が、灯りを吸って鈍く光った。
楢は年を経ると色が濃くなる。十年前のものは飴色に近い。去年彫ったものは、まだ白い。棚の上から下へ、色が少しずつ濃くなっていく。並べ直したことはない。彫った順に置いただけだ。
左右がひと組。組ごとに紐で結んである。結び目の下に、小さな板の名札。字はわたくしのものだ。父の字は一枚もない。父はこの家の誰の靴も作っていない。ヨルクは、口を開けたまま見ていた。
「……これは、全部」
「十年ぶんです」
「旦那様のものが、これほど」
「三年に一度は彫り直しております。足は変わりますので」
ヨルクは手を伸ばしかけて、止めた。
「触れても」
「どうぞ」
ヨルクは旦那様の冬用を手に取った。両手で持って、しばらく重さを確かめていた。
「……重いものですな」
「楢ですので」
「これを、当家へ持ち帰ることはできますか」
「できます」
ヨルクが顔を上げた。
「できるのですか」
「木でございますから、荷馬車に積めば運べます。どうぞお持ちください」
「……法は」
「法は、引き渡しを求めることはできない、と申しております。わたくしが差し上げるぶんには、何も申しておりません」
ヨルクは木型を持ったまま、わたくしを見た。この人は賢い。だから、待った。
「ただし」
わたくしは続けた。
「その型を彫れる者は、この国におりません」
灯りの芯が、少し爆ぜた。
「……どういう意味です」
「木型は、削れば減ります。減れば作り直します。作り直すのは、彫った職人か、その彫り方を知っている者だけです」
「王都には、名のある靴師が何人も」
「おります。皆さま、踵から彫られます」
「それが」
「父は、指の付け根の傾きから彫りました。順番が違えば、同じ寸法からでも別の形が出ます」
わたくしは棚の木型を一つ指した。
「その型を写しても、写した人の型になります。旦那様の足の型には、なりません」
ヨルクは、木型をゆっくり棚へ戻した。置くとき、隣の型に当たらないように角度を変えた。丁寧な置き方だった。この人は、たぶん物の価値を測るのが仕事なのだろう。棚は静かだった。木は音を立てない。十年ぶんの足が、そこで黙っている。
「……父上は、他に弟子を」
「取りませんでした」
「なぜ」
「存じません。訊いても答えない人でしたので」
ヨルクはしばらく棚を見ていた。それから、外套の襟を直した。
「持ち帰らずに、置いてまいります」
「よろしいのですか」
「持ち帰っても、当家では削れませんので」
「賢いご判断です」
「……皮肉ですかな」
「いいえ。事実です」
◇
ヨルクは扉のところで、一度だけ振り返った。
「アルンド殿。ひとつ、伺ってもよろしいか」
「どうぞ」
「なぜ、あの夜のうちに運び出されたのです。翌朝でもよかったでしょう」
わたくしは少し考えた。
「翌朝ですと、お義母様が起きていらっしゃいます」
「止められると」
「いいえ。見られると、説明しなければなりません」
「説明を、なさりたくなかった」
「説明すると、渡すことになります」
ヨルクは、ほんの少しだけ口の端を上げた。笑ったのだと思う。
「失礼いたしました」
扉が閉まった。
◇
扉が閉まってから、わたくしはしばらく棚の前に立っていた。ノラが灯りを持ったまま、横に立っていた。
「奥様」
「はい」
「あの人、なんで手ぶらで帰ったんですか」
「持って帰れないと分かったからです」
「持てましたよね。重いだけで」
「持てます。持っても仕方がないだけです」
わたくしは布を戻した。棚が、また白くなった。
「ノラ。この棚のものは、売り物ではありません」
「はい」
「使い道もありません」
「……はい」
「ただ、これがある限り、あちらは新しい靴を作れません」
ノラは灯りを持ち直した。
「それって、人質じゃないですか」
「木です」
「木の人質ですね」
「そうなります」
◇
外へ出ると、雪はもう止んでいた。ノラが、店の前に立っていた。裸足の上に布を巻いただけの足で、雪の上に立っている。
「ノラ。中へ」
「はい」
「その足では冷えます」
「慣れてるので」
「慣れても冷えます」
「じゃあ、慣れてるので平気です、って言い直します」
ノラは土間に上がって、足の布を巻き直した。右のほうを、少し厚く巻いていた。巻き方には手順があった。踵から回して、甲で交差させて、指の付け根で止める。毎日やっている手つきだ。何年やれば、この手つきになるのだろう。
わたくしは何も言わなかった。訊いてよい時期ではない。坂の上から、雪を踏む音がした。アーベル様だった。仮の中敷きはもう潰れているはずだが、まだ杖のつき方が浅い。
「客が帰ったな」
「はい」
「何を言われた」
「木型を返せと」
「返したのか」
「いいえ」
その方は頷いた。それだけで済ませようとして、それから、思い直したように口を開いた。
「アルンド」
「はい」
「王都へ、行く用がある」
わたくしは顔を上げた。坂の上に、その方が来た跡が残っていた。雪の上の足跡だ。二本の線になっている。折れ線ではない。仮の中敷きが潰れかけていてもなお、跡はまっすぐ並んでいた。歩き方というのは、こんなに早く変わるものらしい。
この十年、屋敷を出なかった人が、そう言った。
三日で潰れる中敷きを、あの方は五日履いていらっしゃいました。




