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旦那様の足に合う靴は、もうどこにもございません  作者: 柊木ましろ


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第7話 詰め物の主

 行商が来たのは、雪の緩んだ日だった。荷馬車一台に、革と糸と道具を積んでいる。牛革は巻いて縦に。羊は平らに重ねて。上に油紙をかけてある。荷の積み方を見れば、腕はだいたい分かる。この人は上手だった。


 王都から北をまわる革屋で、父の代からの付き合いだという。荷を解きながら、ずっと喋っていた。


「いや驚いた。アルンドさんの娘さんが北にいるってのは聞いてたが、本当だったとはねえ」


「お世話になります」


「牛は今年は高い。羊なら安く出せる。……ところで奥さん、聞きました?」


「何をでしょう」


「レーベンの伯爵様が、王都中の靴屋に注文を出してまわってるって話ですよ」


 わたくしは革の値札を見ていた手を、止めなかった。


「まわって、と申しますと」


「一軒じゃないんだ。三軒か四軒。同じ人の靴を、同じ時期に、別々の店に頼んでる」


「珍しいことでしょうか」


「珍しいですよ。腕を比べるならまだしも、どこも仕上がってこないんだと」


「仕上がらない」


「型が取れないんだそうで。足を測っても、測るたびに数字が違うと」


 羊革を一枚、めくった。裏を見て、傷の数を数えた。


「注文を出しているのは、伯爵様ご本人ですか」


「いや、若い奥様のほうだって聞きましたね。……ああ、後添えの」


「そうですか」


「気の毒な話だ。前の奥様がずいぶん出来た方だったとかで、比べられて大変なんじゃないですかね」


 行商は、そこで初めてこちらを見た。それから、口を押さえた。


「……前の奥様ってのは」


「羊を三枚いただきます。あと、麻糸を二巻き」


「はい」


 行商は荷を解き直した。羊革を三枚、選んで抜く。抜いた跡を平らに直して、油紙をかける。手が早い。喋りながらでも、手だけは正確だった。勘定を済ませて、荷馬車が坂を下りていった。轍が緩んだ雪に深く沈んで、跡が二本、長く残った。


  ◇


 行商が帰ったあと、ノラが土間の隅から出てきた。


「奥様」


「はい」


「今の、奥様のことですよね」


「そうですね」


「なんで訂正しないんですか」


「訂正して、あの方が困るだけです」


「奥様は困らないんですか」


「困りません」


 ノラは箒を持ったまま、こちらを見ていた。納得していない顔だ。わたくしは麻糸の巻きを解いて、糸車にかけた。


「ノラ。ひとつ教えます」


「はい」


「縫い目は、字より個性が出ます」


「はあ」


「字は習いますから、みな似ます。縫いは習わない人が多いので、癖がそのまま出ます。針を引く強さ。穴の間隔。糸を返す向き」


「……それが、なんですか」


「思い出したことがございました」


  ◇


 春のことだ。思い出すのに半月かかった。半月かかった理由も、あとで分かった。


 わたくしは人の顔を覚えない。足と手は覚える。あの日、わたくしはその方の顔をほとんど見ていなかった。見ていたのは、靴と、手元だった。だから「誰か」と結びつくまでに時間がかかった。


 顔で覚える人なら、もっと早く気づいたのだろう。あるいは、一生気づかなかったかもしれない。王都の屋敷の玄関で、若い方に会った。


 義母の従妹の娘だという。挨拶をされて、こちらも挨拶を返した。それだけの、四半刻に満たないやりとりだった。そのとき、その方は手巾を持っていた。


 縁が綻びていて、自分で繕ったのだという。恥ずかしそうにしていたので、わたくしは「よくできています」と申し上げた。嘘ではない。細かく縫えていた。ただ、癖があった。


 三つの穴を、一度に刺す。


 母から教わる縫い方ではない。教わる人は、一針ずつ引く。三つまとめて刺すのは、誰にも習わずに、自分で速さを覚えた人の手だ。


 布に針を三度出し入れしてから、糸を引く。速いが、糸が均等に締まらない。だから縫い目が、三針ごとに一度だけ揃わなくなる。わたくしはそのとき、これを直そうとして、やめた。人の縫い方に口を出すのは、職人の悪い癖だからだ。


 その方は手巾をしまって、それから、わたくしの手を見た。指の腹に糸の跡がある。革を縫う者の手だ。何か言いたそうにして、言わずに行かれた。今から思えば、あのとき何を言おうとしたのかは、だいたい見当がつく。


  ◇


 あの夜、旦那様の靴から出てきた詰め物も、同じだった。


 三針ごとに、一度だけ揃わない。わたくしは「知らない手だ」と思った。実際には、一度だけ見た手だった。そこまで話すと、ノラは箒を置いた。


「……つまり、その人が」


「詰め物を入れた方です」


「詰め物って、なんのために入れるんですか」


「靴が大きいときです。指の前に空きがあると、歩くたびに足が前へ滑ります」


「なんで大きいんですか。奥様が作ったんですよね」


「作りました。合っておりました」


 わたくしは糸車を回した。


「合っている靴に詰め物を入れる人は、いません。入れるのは、その靴が誰かの手で一度緩められたか——」


 止めた。


「か?」


「いいえ。もうよろしいのです」


 ノラは、しばらく黙っていた。それから、箒の柄で床を一度叩いた。


「奥様」


「はい」


「それ、全然許してないですよね」


「ええ」


「即答」


「はい」


 ノラは笑った。笑ったあと、少し困った顔になった。


「あの、怒らないんですか」


「怒っております」


「見えないです」


「怒ると、手元が狂います」


「じゃあ、いつ怒るんですか」


「怒りません」


「一生ですか」


「一生です」


 ノラは、しばらくこちらを見ていた。


「……それ、損してませんか」


「得はしておりません」


「だったら」


「怒って直るものなら、怒ります。直らないものに怒ると、こちらだけが減ります」


「減る」


「ええ。人も、靴と同じで、使ったところから減ります」


 わたくしは糸を切って、端を結んだ。結び目を指で潰して、平らにする。平らにしないと、履いたときに当たる。当たるところは、いずれ痛む。痛むところは、いずれ形を変える。靴の中で起きることは、たいてい何年もかけて起きる。


 だから、今日の一針が効いてくるのは、五年先だ。


「あの方の足を、あの方が測ればよいのです。それだけの話です」


  ◇


 その日の夕方、アーベル様の靴の底を裁った。甲革は羊にした。柔らかいほうがいい。この方の足は十年、硬い革に押さえつけられてきた。押さえる作りは、もう要らない。


 底革は厚い。革包丁を一度で通す。途中で止めると、切り口が段になる。段になった底は水を吸う。


 三枚を重ねて、糊で貼る。重しを置く。乾くまで半日。乾いてから縁を落とす。落としてから磨く。磨くと黒くなる。黒くなれば、雪の跡が目立たない。手を動かしていると、余計なことを考えない。十年、そうやってきた。


 左の底は、木型の高さのぶんだけ革を重ねる。三枚。順に幅を変えて、段差が指に当たらないようにする。裁っていると、ノラが横に立った。


「奥様」


「はい」


「王都の人たちって、足を測っても数字が違うって言ってましたよね」


「行商の方はそう申しておりました」


「なんで違うんですか」


「測る人が、測りたい数字を先に持っているからです」


「……それ、意味が分かりません」


「左右が同じだと思って測ると、同じ数字が出ます」


 ノラは、ゆっくり瞬きをした。


「じゃあ、あの人の靴は」


「いつまでも仕上がりません」


 わたくしは革包丁を置いた。窓の外で、坂を下りていく人の足音がした。雪が緩んで、踏むたびに沈む音になっていた。この時期の靴は、いちばんよく傷む。直す靴が、また増える。

 春はまだ先ですが、雪が緩むと、靴は先に傷みます。

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