第6話 王都からの手紙
王都の紋章の男は、三日おきに来た。靴は出さない。並びもしない。列の後ろに立って、しばらく見て、帰る。四度目に、ノラが我慢しきれずに声をかけた。
「あの、直すんですか、直さないんですか」
「見ているだけだ」
「何を」
「棚を」
男はそう言って、坂を上っていった。ノラが戻ってきて、鼻に皺を寄せた。
「奥様。あれ、気味が悪いです」
「そうですね」
「追い返しましょうか」
「土間に立っているだけの人を、追い返す理由がありません」
「じゃあ、こっちが見ればいいんですね」
「何をですか」
「あの人の靴です」
わたくしは糸を置いた。
「よく気がつきました」
「見ましたよ、ちゃんと。底が減ってません」
「ええ」
「新品ですか」
「いいえ。革が古うございました。減っていないだけです」
「減らないってことは」
「歩いていないということです。あの方は馬か馬車で来ています」
ノラは、少し得意そうな顔をした。それから、すぐに真顔に戻った。
「……王都から、馬車で?」
「そうなります」
◇
手紙が届いたのは、その翌日だった。
ノルデンに郵便は週に二度しか来ない。荷馬車の御者が兼ねている。宿の帳場に袋ごと置いていく。宛先を書いた紙が貼ってあるだけの、粗い仕組みだ。誰宛の手紙が来たかは、その日のうちに街じゅうが知る。
宿の主人が届けに来た。手渡すとき、封蝋の紋をちらりと見た。見て、何も言わずに帰った。この街の人は、そういう気の遣い方をする。封蝋はレーベンの紋。字は旦那様のものだ。書き慣れた字で、五行しかなかった。
――先般の離縁に際し、当家の物品が持ち出された事実を確認した。木型と称する木製品一式は当家の財産である。速やかに返却されたい。応じない場合は、王都の靴商組合を通じて相応の手続きを取る。
署名の下に、日付。それだけだった。わたくしは手紙を作業台に置いて、しばらく見ていた。この人は、わたくしが返さないとは思っていない。「速やかに」と書いてある。返すのが当たり前だと思っている人の書き方だ。
五行のうち、四行が木型のことだった。残りの一行は日付だ。体調を尋ねる行はない。慰謝料の行もない。十年いた家を出た人間の行き先を尋ねる行も、ない。わたくしは少し感心した。ここまで削れる人は珍しい。
「奥様。誰からですか」
「王都です」
「誰から、って訊いてます」
「もと、夫だった人です」
ノラは箒を止めた。
「……なんて」
「木型を返せと」
「返すんですか」
「いいえ」
わたくしは帳場から父の帳面を出した。三年ぶりに開いた。革表紙が固くなっている。中は仕入れの記録が大半だが、後ろのほうに、父が書き写した条文がある。
――王国靴商法、第九条。木型は、注文主の身体を写したものであるが、その所有は彫成した職人に属する。注文主は木型の引き渡しを求めることができない。ただし職人が廃業する場合、これを注文主へ譲ることを妨げない。
父はこの条文を、二度書いていた。一度目は若いころの字で。二度目は、震えた字で。なぜ二度書いたのかは、書いていない。
震えた字のほうは、店を閉めた年の頁にあった。父はそのころ、もう革包丁を持てなくなっていた。持てない手で、この条文だけを書き写した。書き写して、誰にも見せずに閉じた。
「ノラ」
「はい」
「紙を一枚」
「返事、書くんですか」
「いいえ。控えを取ります」
わたくしは条文を写した。写して、原本の帳面は棚の奥へ戻した。手紙のほうは、封筒ごと箱に入れた。捨てなかった。捨てると、来なかったことになる。
「返事は」
「書きません」
「書かないと、また来ますよ」
「来ます」
「それでいいんですか」
「返さないと書けば、争いになります。書かなければ、向こうが来るまで何も起きません」
「……ずるくないですか、それ」
「ずるいです」
「認めるんですね」
「ええ。ずるいほうが長く続きます」
「奥様、たまに怖いこと言いますね」
「靴屋は気の長い商売です。三月で答えを出す必要がありません」
ノラは箒を持ち直して、それから土間の隅を掃きはじめた。掃きながら、独り言のように言った。
「……あたし、そういうの、いいと思います」
「何がでしょう」
「言い返さないで、返さないってやつです」
わたくしは糸車を回した。回すと、部屋の音がそれだけになる。
◇
その夜は、木型の仕上げをした。紙で撫でる。撫でて、灯りにかざす。面に光の筋が走る。筋が途切れるところは、まだ平らでない。そこをまた撫でる。
楢は削ると甘い匂いがする。しばらく経つと消える。消えるまでのあいだが、いちばん楽しい。
父はこの時間に何も喋らなかった。工房にいるあいだ、父はほとんど声を出さない人だった。わたくしが十のころ、退屈で話しかけたら、こう言われた。
――音を聞け。
削る音が変わるところが、木の詰まっているところだ。目で見るより先に、手と耳が知る。
三日目の朝に、木型が仕上がった。
左右を並べて、灯りの下に置いた。左の踵の下が、指の幅ひとつ半だけ高い。並べると歪んで見える。歪んで見えるほうが正しい。アーベル様は、昼前に来た。
「できたのか」
「木型が、です。靴はこれからです」
「見せてくれ」
わたくしは二つを渡した。その方は両手で受け取って、しばらく持っていた。それから、左のほうを目の高さまで上げた。
「……これが、俺の足か」
「はい」
「ずいぶん、いびつだな」
「いびつなのは、床のほうです」
その方は木型を持ったまま、動かなかった。土間の低いところに視線が落ちている。自分の足を見ているのだと分かった。その方は、木型を下ろした。
「どういう意味だ」
「世の中の床は、みな平らにできております。平らな床は、左右の同じ人のためのものです」
「俺は違う」
「はい。ですから、靴で床を作ります」
その方は、木型をもう一度見た。それから、そっと作業台に戻した。置き方が、ずいぶん丁寧だった。
「……アルンド」
「はい」
「客が来ていたな。王都の紋の男だ」
「ご存じでしたか」
「宿で見た。あれは、レーベン家の家令だ。名はヨルクという」
わたくしは手を止めた。
「よくご存じで」
「北の兵站でこちらへ来ていた男だ。顔は覚えている」
その方は、わたくしを見ていた。訊いてもいいのかを測っている顔だった。わたくしは先に言った。
「レーベンは、わたくしの婚家でございました」
「……そうか」
「木型を返せと、手紙が参りました」
「返すのか」
「いいえ」
その方は、それきり何も言わなかった。ただ、そのとき初めて、わたくしのほうから話しかけずに会話が続いていることに気がついた。この方が自分から口をきいたのは、これが初めてだった。外で、雪が屋根から落ちた。
「アーベル様」
「なんだ」
「先日のご質問に、お答えいただかなくて結構です」
「……どの質問だ」
「十年、お屋敷を出ていらっしゃらなかった理由です」
その方は、杖の握りを一度だけ握り直した。それから、木型をもう一度だけ見て、帰っていった。扉が閉まる。雪を踏む音が、坂の上へ遠ざかる。前より足数が多い。歩幅が短くなっている。仮の中敷きが、そろそろ潰れている。
わたくしは棚の前に立った。棚は二段ある。上の段に、婚家の男たちの型。下の段は空だった。空の棚を見ると、落ち着かない。父の工房では、いつも下から埋まっていった。わたくしは、その空いた段に、今日の型を置いた。
名札は下げなかった。名を書くのは、靴が仕上がってからだと決めている。答えは、なかった。
訊かないと決めた質問は、たいてい、あとで向こうから来ます。




