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旦那様の足に合う靴は、もうどこにもございません  作者: 柊木ましろ


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第5話 夜に来る客

 戸を開けると、老人が立っていた。背は低い。肩に雪が積もっている。積もるほど、そこで待っていたのだろう。


「……まだ、やっとるかね」


「開けております」


「昼は仕事でな」


「どうぞ」


 老人は土間に入って、それから入口のところで止まった。靴を見られるのが恥ずかしい人の止まり方だった。


「かけてください」


「いや、汚れる」


「土間です」


 老人は、上がり框の端に少しだけ腰かけた。


「わしは、ヘルマンという。上の道の雪かきをしとる」


「リディア・アルンドと申します」


「アルンド……王都の名かね」


「はい」


「そうか」


 ヘルマン様は自分の手を見た。指が太い。関節が節くれて、爪が短く割れている。雪かきの柄を四十年握ると、この形になるのだろう。


「前の靴屋も、王都から来たんだ」


「そう伺いました」


「あれも悪い男じゃなかった。ただ、わしらの靴を見ると、困った顔をした」


「困る、と申しますと」


「直しても三月で戻ってくるからな。しまいには、買い替えろとしか言わんようになった」


「買い替えられましたか」


「……買い替えられる者から、先に街を出ていったよ」


 わたくしは糸を巻く手を止めた。それから、また巻いた。ヘルマン様は膝の上で手を組んだり、ほどいたりしていた。用件を言うのに時間がかかる人だ。わたくしは糸を巻きながら待った。


「その、直せるかね」


「拝見します」


 脱いでもらった靴は、片方だけ紐が別のものだった。切れて、革紐で結び直してある。爪先の縫い目が、両方とも割れていた。


 それだけではない。割れた口から水が入って、中の裏革が波打っている。踵の芯は潰れて、内側へ倒れていた。この靴は、履くたびに足を前へ滑らせている。


「これは、いつからお履きですか」


「六年になるかな」


「一足だけで」


「まあ、な。雪かきは足を濡らすから、いくつあっても同じでな」


 嘘だ。もう一足買う金がないだけだろう。だが、そう言わせる必要はない。


「明日の朝までに、直します」


 ヘルマン様は顔を上げた。


「朝」


「はい」


「いや、それは……三日でも四日でも待つよ。明日も雪かきがあるんだ」


「明日の雪かきに、要るのでしょう」


「……要る」


「では、朝までです」


「金は」


「銅貨四枚です」


「四枚」


「はい」


 ヘルマン様は口を開けた。それから、財布を出して、中を見て、また閉じた。


「あんた、それでは商売にならんだろう」


「なりません」


「なら」


「今日はなりません。明日から、なるようにいたします」


 ヘルマン様は、わたくしをしばらく見ていた。それから、深く頭を下げて、裸足に藁を巻いて帰っていった。


  ◇


 直しは、二通りある。割れた縫い目を縫い直すだけなら、四半刻で済む。ただ、それでは三月でまた割れる。割れるのは、縫いが弱いからではない。爪先の甲が低くて、上りのたびに指が革を内から突き上げているからだ。


 わたくしは裏革を全部外した。外すと、中の傷み方がよく見えた。指の当たる位置に、革の毛羽が立っている。ここが六年、突き上げられてきた場所だ。


 甲の部分に、革を一枚足す。継ぐのではなく、内側から当てて、高さを作る。指が当たる位置が、指の幅ひとつぶん上がる。それだけで、突き上げる力の向きが変わる。


 踵の芯は、丸ごと入れ替えた。潰れた芯は戻らない。革を三枚、糊で貼り合わせる。乾くまで重しを置く。重しは木型でいい。


 紐も替えた。片方だけ革紐というのは、歩き方を左右で変える。同じ紐にすれば、締め方が揃う。締め方が揃えば、減り方も揃う。


 縫いは太い糸にした。細い糸は雪に弱い。見た目は野暮になる。この方は見た目を気にしない。気にする人と気にしない人では、作りを変える。


 最後に、底の内側だけを薄く削って、外側を残した。この方は下りで踵の内を使う。使う側を減らしておけば、足のほうが減らない。外は静かだった。雪はまだ降っている。屋根から落ちる音が時々した。


 手を動かす。糊を伸ばす。乾くのを待つ。待つあいだに次の革を裁つ。裁った端は箱に入れる。端革は捨てない。楔になる。詰め物になる。


 この六年、この靴は毎朝この街の坂を上った。上って、下りて、また上った。誰も見ていない。靴だけが数えていた。


 夜半を過ぎたころ、ノラが起きてきた。


「奥様。まだやってるんですか」


「もうすぐです」


「銅貨四枚ですよ」


「ええ」


「割に合ってないです。革一枚のほうが高いです」


「そうですね」


「なんでやるんですか」


 わたくしは糸を引き締めながら答えた。


「あの方は、この街で一番よく歩く人です」


「……はい?」


「雪かきの人は、街の道を全部歩きます。一番歩く人の靴が直ると、一番よく見えます」


 ノラは、しばらく黙っていた。


「奥様、それ、けっこう計算高いですね」


「商売ですので」


「さっき、商売にならないって言ってたじゃないですか」


「今日はなりません」


  ◇


 朝、ヘルマン様は日の出前に来た。靴を履いて、土間で二、三歩あるいた。それから、また歩いた。四度目に、立ち止まった。


「……当たらん」


「はい」


「指が、当たらん」


「甲を上げましたので」


「六年、当たっとったんだが」


「六年、そういう作りでございました」


 ヘルマン様は、まだ歩いていた。土間は五歩ぶんしかないので、行ったり来たりしていた。


「銅貨四枚だったね」


「はい」


「……六枚置いていく。釣りはいらん」


「四枚で結構です」


「いや」


「四枚と申し上げました。次にお持ちいただくときは、正しい値をいただきます」


 ヘルマン様は財布を握ったまま、少し笑った。


「あんた、王都の人にしては、ずいぶん商売が下手だな」


「よく言われます」


  ◇


 その日の昼、女が二人来た。ヘルマン様の話を聞いたという。夕方には四人になった。次の日は、朝から人が並んだ。列は、店の前から坂の下まで伸びた。並んでいるのは、ほとんどが年寄りと女だった。若い者は買い替えるからだろう。


「奥様、全部やるんですか」


「順に」


「今日中に終わりませんよ」


「終わりません。番号を渡してください」


「番号」


「今日の分と、明日の分に分けます。明日の方には、今日のうちに靴を預かって、帰りは古いほうを履いていただきます」


「そんなの、あるんですか」


「今日から、あります」


 ノラは紙を切って、下手な数字を書きはじめた。字は書けないが、数字は書けるらしい。


 並んだ人の靴を、片端から見ていく。爪先が割れている。踵の内が減っている。同じ街の同じ坂を歩けば、同じところが傷む。原因が同じなら、直し方も同じだ。ノラが台帳に名前を書き取ろうとして、書けずに詰まっていた。


「奥様、書けません」


「では、絵で」


「絵」


「靴の絵を描いて、傷んでいるところに印を。名前はわたくしが書きます」


 ノラは、下手な靴の絵を並べはじめた。下手だが、印の位置は正確だった。


 夕方、列の最後に、ひとり残っていた。外套の胸に、銀の留め金が光っていた。王都の紋章だ。この街で見る色ではない。その人は、靴を出さなかった。


 その人は靴を出さなかった。名も言わなかった。わたくしの手元と、壁の棚を、順に見ていた。

 棚には、まだ何も並べておりません。並べていないものを見る人がおります。

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