第4話 木型を彫る日
楢の角材を、作業台に据えた。父の遺した材だ。三年、婚家の物置で寝ていたものを持ってきた。乾いている。乾いた材は狂わない。狂わない材で彫った型は、十年後も同じ足を覚えている。
鉛筆で、寸法を写した。踵の幅。甲の高さ。指の付け根の傾き。それから、左だけに書き足す。
――踵下、指の幅ひとつ半。
治らない前提で書く数字だ。医者はこれを書かない。書いたら負けだと思っているからだろう。
この高さは、中敷きで足してはいけない。中敷きは沈む。沈めば、また元の歩き方に戻る。木型そのものを高く彫って、底の革で受ける。そうすれば、靴が減っても高さは残る。
父はこれを「嘘をつかない作り」と言っていた。中敷きは、履いた人に「治った」と思わせる。木型は、思わせない。ただ、合う。鋸を入れて、荒く落とす。それから鉋。最後は小刀と、紙で撫でる。
削るときは、迷ってはいけない。木は戻らない。足りないと思って削り足すと、たいてい削りすぎる。だから最初に一番深いところを決めて、そこへ向かって落としていく。
父の彫り方は、王都でも変わっていた。ふつうは踵から彫る。父は、指の付け根の傾きから彫った。そこが人によって一番違うからだ、と言っていた。順番が違えば、出来上がる形も違う。同じ寸法を渡しても、別の職人が彫れば別の型になる。
だからこの棚の型は、わたくしと父にしか彫り直せない。父は死んだ。
「奥様」
ノラが、土間の入口に立っていた。朝から三度目だ。
「なんでしょう」
「それ、なにしてるんですか」
「彫っています」
「見てました。だから、なにしてるのか訊いてます」
わたくしは小刀を置いた。この子は、答えないと同じ質問を形を変えて出してくる。
「あの方の足を、木で作っています」
「なんで木なんですか。紙に書いておけばいいのに」
「紙は平らです。足は平らではありません」
「あー」
ノラは近づいてきて、削り屑を指でつまんだ。それから、木型の削りかけを覗き込んだ。
「これ、まだ足に見えないですけど」
「見えるようになるまで削ります」
「どのくらい」
「三日です」
「三日も削るんですか、これを」
「一足の靴を三十年履く人がおります。三日は安いほうです」
ノラは黙った。それから、床にしゃがんで、削り屑を集めはじめた。頼んでいないのに集めている。わたくしは小刀を持ち直した。
「ノラ」
「はい」
「あなた、字は」
「読めます。書けません」
「数は」
「勘定はできます。皿の数が合わないと怒られるので」
「そうですか」
「……雇うんですか、あたしを」
「掃除と、運びと、糸の巻き取りです。給金は月に銀貨二枚。宿代は引きます」
ノラは削り屑を握ったまま、しばらく動かなかった。
「安くないですか」
「安いです。あなたはまだ何もできませんので」
「言い方」
「二年経てば上げます」
「二年」
「靴は二年で覚えられません。糸の巻き取りは、二年で覚えられます」
ノラは立ち上がって、削り屑を土間の隅の箱に入れた。それから、こちらを見ずに言った。
「……やります」
◇
その日の午後、アーベル様が来た。入口で外套の雪を落として、それから土間の上がり框に座った。座り方が、前より少しゆっくりだった。仮の中敷きが、まだ潰れきっていないからだろう。
「彫っているのか」
「はい」
「見ていていいか」
「どうぞ」
わたくしは削り続けた。この方は本当に、何も言わずに見ていた。半刻ほど、そうしていた。途中で一度だけ、口を開いた。
「なぜ、俺のを先に彫る」
「他に頼まれておりませんので」
「……そうか」
それきりだった。窓の外が暗くなりはじめたので、灯りを点けた。灯りを点けると、木の面の陰影が変わる。昼に見えなかった膨らみが見える。わたくしは左の踵の内側を、紙で三度撫でた。
「ガイスト様」
「アーベルでいい」
「では、アーベル様。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「この十年、お屋敷を出ないようにしていらしたのは、なぜでしょう」
その方は、答えなかった。わたくしは手を止めなかった。答えない相手の顔を見るのは、失礼にあたる。しばらくして、その方は立ち上がった。
「帰る」
「はい」
「……三日後だな」
「三日後です」
扉が閉まった。雪を踏む音が、坂の上へ遠ざかっていった。ノラが奥から出てきた。
「奥様。あの人、なんで答えなかったんですか」
「答えたくないことだったのでしょう」
「じゃあ訊かないほうがよかったのに」
「訊いておかないと、靴が作れません」
「足の話じゃないですよね、それ」
「足の話です」
わたくしは削りかけの木型を、灯りの下に置いた。
「一日にどれだけ歩くのか。どこを歩くのか。誰と歩くのか。それで底の厚みが変わります。人前に出ない方の靴と、出る方の靴は、別のものです」
「……じゃあ、出るようになったら、作り直しですか」
「はい」
「二度手間じゃないですか」
「二度手間になるほうが、よろしいのです」
◇
看板は、三日目の朝に出した。板を一枚、父の看板と同じ形に切って、字を彫った。「アルンド靴工房」。彫るのは下手で、二画目が太くなった。父もそうだった。血だと思う。庇に打ちつけて、下から見上げた。
打っていると、宿の主人が坂を下りてきた。
「本当にやるのかね」
「やります」
「いや、疑ってるんじゃない。……前のやつは、看板を出さんかったんだ」
「出さずに、どうやって」
「口伝てでな。恥ずかしかったんだと思う。この街で靴屋をやるのが」
「恥ずかしいことでしょうか」
「保たん靴を売る商売だからな。三月で戻ってくる。客の顔を見るのが嫌になるんだと」
わたくしは釘を打ち終えて、金槌を下ろした。
「三月で戻ってくるなら、三月ぶんの直しをすればよいのです」
「儲からんぞ」
「儲かる話は、あとでいたします」
主人は笑って、坂を上っていった。上りは爪先に力が入る。この人の靴も、そのうち割れる。
その日、客は来なかった。次の日も来なかった。
朝に土間を掃く。革を裁つ。糸を巻く。昼に木型を撫でる。夕に戸を閉める。同じ手順を三度繰り返すと、三日が過ぎた。
通りを歩く人は、看板を見た。見て、それから足を速めた。新しい店に入るのは、誰にとっても勇気が要る。まして靴屋だ。この街の人は、靴屋に一度裏切られている。
三日目の午後に一人来て、道を尋ねて帰った。
「奥様」
「はい」
「あたしたち、潰れませんか」
「三月ぶんの家賃は払ってあります」
「三月で潰れますね」
「その前に、来ます」
「なんで分かるんですか」
「この街に十年、靴屋がおりませんでした」
わたくしは糸を巻きながら答えた。
「十年ぶん、直していない靴があるということです」
ノラは納得しない顔をした。納得しないまま、床を掃いていた。
その夜、わたくしは奥の棚の布をめくって、旦那様の木型を出した。冬用のほうだ。手に持って、右の親指の付け根の出っ張りを確かめた。それから、また布をかけて戻した。
なぜそうしたのかは、自分でもよく分からなかった。あの家を出てから、まだ半月しか経っていない。半月で、わたくしは行ったことのない街に店を持って、名前も知らなかった娘を雇って、辺境伯の足を測った。
そのあいだ、旦那様のことを一度も考えなかった。考える必要がなかったからだ。灯りを消そうとしたときだった。戸を叩く音がした。こんな時刻に、靴を出す者はいない。
夜に靴屋へ来る人は、昼に来られない人です。




