第3話 足の形は嘘をつかない
坂の下に、空いた店があった。もとは荒物屋だったという。間口は狭いが、奥に土間があって、天井が高い。梁が太い。窓が北向きなのが気に入った。革は日に当てると焼ける。
「借りたいのですが」
宿の主人が、帳面から顔を上げた。この人が家主の代理も兼ねているらしい。
「あんた、何屋になるつもりだね」
「靴です」
「靴」
「はい」
主人は少し黙って、それから笑った。悪意のある笑い方ではなかった。
「うちの街で靴屋をやろうって人は、十年ぶりかな」
「十年」
「前のが辞めてね。ここは坂だから、靴が保たん。修理ばかりで儲からんて、王都へ行っちまった」
「保たないのは、坂のせいではありません」
「ほう」
「合っていないだけです」
主人はまた笑った。今度は、返事に困ったときの笑い方だった。
「まあ、家賃は安くしとくよ。空けとくよりましだ。ただし、前金で三月ぶん」
「結構です」
わたくしは頭を下げた。ノラが後ろで、勝手に土間の広さを歩幅で測っていた。歩幅で測ると人によって答えが変わる、ということを、この子はまだ知らない。
◇
その日のうちに、作業台を据えた。荷馬車から下ろした木型を、壁の棚に並べていく。名札を下げると、婚家の物置と同じ壁ができあがった。旦那様。お義父様。義弟様。バルト。クラウス。門番の親子。二列目まで並べたところで、手を止めた。
全部並べる必要はない。ここへ来る人の型ではないからだ。わたくしは名札のついた木型を布で包んで、奥の棚へ移した。表の棚は、空のままにした。
「奥様。せっかく運んできたのに、しまうんですか」
「並べておくものではありませんので」
「じゃあ何を並べるんですか」
「これから彫るものを」
◇
「主人。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「なんだね」
「昨日、通りを歩いていらした大きな方。杖をお持ちの」
主人の顔から、笑いが消えた。帳面を閉じる手が、少し早かった。
「……ガイスト様だ」
「ガイスト」
「この土地の辺境伯様だよ。北の戦で、足をやられなさった」
「いつのことでしょう」
「十年になるかな。膝から下を、馬ごと潰されたと聞いてる」
十年。わたくしが嫁いだ年だ。抽斗の封筒の日付も、同じ年の春だった。
「王都から名医も来た。名のある靴師も呼んだそうだ。だが、よくならん」
「歩いていらっしゃいましたが」
「歩けりゃいいってもんじゃないんだと。半刻も立つと、もう駄目らしい。だから人前に出なさらん。役所も、代理の方が座っておられる」
主人は声を落とした。
「あんた、悪いことは言わん。あの方の足の話は、この街ではせんほうがいい」
「なぜでしょう」
「みんな、一度は言ったからだよ。良い医者がいる、良い薬がある、と。……もう、誰も言わん」
◇
その方に会ったのは、三日後だった。店の前を掃いていたら、坂の上から降りてきた。近くで見ると、想像より若い。三十半ばくらいだろうか。肩幅で外套が張っている。杖の握りが、右手の形に磨り減っていた。十年ぶんの磨り減り方だった。
わたくしの前で、止まった。
「靴屋が入ったと聞いた」
「はい」
「王都から来たそうだな」
「はい」
それきり、言葉が続かなかった。この方は用件を先に言わない人らしい。わたくしは箒を置いた。
「失礼ですが、そのお靴」
「なんだ」
「拝見してもよろしいですか」
「……見てどうする」
「見るだけです」
しばらく間があった。坂の上のほうで、荷車が石を踏む音がしていた。それから、その方は土間の上がり框に腰を下ろして、左の靴を脱いだ。いい靴だった。
革は最上等。縫いは細かく、目が揃っている。踵の芯もしっかり入っている。王都でこれを作れる者は、十人といない。名前も、三つか四つに絞れる。わたくしは中を覗いて、指を入れた。
内側が、潰れていた。
親指の付け根が当たるところの革が、内から押されて薄くなっている。反対に、踵の内側は擦れて毛羽立っている。前へ押し出されながら、後ろで踏ん張っている足の形だ。外を見て、なるほど良い靴だと言う人は多い。中を見る人は少ない。
「これは」
「言え」
「これは、足に合わせた靴ではございません」
わたくしは靴を置いた。
「足を、靴に合わせようとした靴です」
その方は、わたくしを見た。
「……どういう意味だ」
「作った方は、正しい足を先に決めていらっしゃいます。左右は同じ長さで、まっすぐ立てる足を。そこへ、あなた様の足を入れようとなさった」
「同じ長さでない、と」
「はい」
「なぜ分かる」
「靴が言っております」
その方は黙った。わたくしは続けた。
「測らせていただけますか」
「……断ったらどうする」
「では、掃除の続きをいたします」
その方は、少し驚いた顔をした。それから、右の靴も脱いだ。
◇
巻き尺を当てた。左が短い。指一本ぶん。だが、問題はそこではなかった。左の踵から親指の付け根までの長さは、右とほとんど変わらない。爪先の幅も、甲の高さも、ほぼ同じだ。短くなっているのは、その先ではなく、脛のほうだった。
つまり、足そのものはさほど変わっていない。変わったのは、脚の長さのほうだ。
「あなた様の足は、ほとんど左右同じでございます」
「馬鹿を言うな。医者は皆」
「足の話をしております。脚ではなく」
わたくしは床板を指した。
「立っていただけますか。杖なしで」
その方は立った。左肩が下がる。すぐに右へ体重が逃げた。逃げた先で、右の膝が内へ入る。十年、右がこれを引き受けてきたのだろう。右も、そのうち壊れる。
「そこで止めてください」
わたくしは土間から革の端切れを持ってきた。今日使うつもりで裁っておいた、ただの余りだ。二枚重ねて、四つに折って、楔の形に削る。厚いほうを踵側にする。
「失礼いたします」
左の靴を取って、踵の下に敷いた。指の幅ふたつぶん。少し多い。一枚減らす。
「履いてみてください」
その方は靴に足を入れた。紐を締めた。締め方が乱暴だった。期待しない人の締め方だ。それから、立った。
肩が、下がらなかった。
その方は動かなかった。杖を持った右手が、宙に浮いたままになっている。使う理由が、その瞬間だけ消えたからだ。
「……なんだ、これは」
「高さです」
「高さ」
「脚が短いなら、床のほうを上げればよいのです。足を削るわけには参りませんので」
その方は、まだ立っていた。ノラが土間の奥から出てきて、口を開けたまま見ていた。この子が黙っているのを、わたくしは初めて見た。
「十年だ」
「はい」
「十年、これができる者が、一人もいなかった」
「いらっしゃったと思います」
わたくしは巻き尺を巻き取った。
「ただ、皆さま、あなた様の脚を治そうとなさったのでしょう。治すのは医者の仕事です。わたくしどもは、治らないところに合わせるのが仕事ですので」
その方は、片手で顔を覆った。指の隙間から息を吐いて、それから手を下ろした。
「名は」
「リディア・アルンドと申します」
「……アルンド」
その方の口が、少し止まった。何か言いかけて、飲み込んだように見えた。
「アーベル・ガイストだ」
「存じております」
「今のは、仮のものか」
「はい。楔と端切れでございます。三日で潰れます」
「ならば」
「もう一度、測らせてください」
その方は答えなかった。ただ、立ったままだった。
仮の中敷きは三日で潰れます。三日のうちに、木型を彫らなければなりません。




