第2話 十年ぶんの荷物
父の工房は、三年前から閉まったままだった。鍵は持っている。錠が渋くて、二度ほど回し直してから開いた。押した扉が、思ったより軽く動く。中は暗い。窓の板戸を外すと、埃が光の中に浮き上がった。
埃の匂いがした。革の匂いは、もうしない。
右手に帳場、左手に作業台。壁の棚は空だ。父の木型は、父が死んだ年に全部わたくしが引き取って、婚家の物置へ運んだ。それを昨夜、また運び出したことになる。三年かけて、同じ棚から同じ棚へ戻ってきたようなものだった。
作業台の下の箱に、父の道具が入っていた。革包丁が三本。研ぎ減って、一本は刃が半分になっている。柄の巻き革が、右の親指の当たるところだけ黒くなっていた。父の握り方だ。わたくしは同じところを握れない。手が小さいので、少し先を持つ。
外へ出て、庇の上を見た。看板は外されていない。「アルンド靴工房」の文字は、雨と日で薄くなって、下地の白木が透けはじめている。父が自分で彫った字だった。彫るのが下手で、二画目がいつも太くなる。
「アルンドさんとこの、お嬢さんかい」
振り返ると、向かいのパン屋の女将が立っていた。前掛けに粉がついている。
「ご無沙汰しております」
「まあ、まあ。ずいぶん立派になって。……嫁ぎ先はどちら様だったかしら」
「離縁いたしました。昨夜」
「…………昨夜」
「はい」
女将は口を開けて、それから閉じた。その顔をどうしたものか、しばらく決めかねているようだった。人は、慰めていいのか祝っていいのか分からない話を渡されると、たいていこの顔になる。結局、女将はこう言った。
「この店、売らないの。場所はいいのよ、ここ」
「そうですね」
「買いたいって人、何人か来てたわよ。組合の紹介だとか言って」
「組合が」
「そう。三年前から、ずっと。断っても断っても来るの。うちにも寄って、アルンドさんとこは誰が持ってるんだって訊いてったわ」
「なんと答えてくださいましたか」
「知らないって言っといた。……よかったかしら」
「助かりました」
女将は少し得意そうな顔をして、粉のついた手を前掛けで拭った。わたくしは店の中をもう一度見た。父がここで店を閉めたのは、死ぬ二年前だ。理由は聞いていない。訊いても答えない人だった。
「考えておきます」
◇
帳場の抽斗は、二段目だけが固かった。木が湿気で膨らんでいる。左右に揺すりながら引くと、紙の束が奥に詰まっているのが見えた。仕入れの控え。革屋の値表。糸屋の請求。父の字は細くて、数字だけが妙に大きい。
その束の下に、一通あった。封が切られていない。北の、雪の結晶をかたどった紋。ガイスト。ノルデンの辺境伯家だ。日付を見た。十年前の、春。わたくしが嫁いだ年の、ちょうどその頃だった。
わたくしは封筒を灯りに透かした。中に一枚。ただの紙一枚しか入っていない。開けなかった。
父が開けなかったのか、開けて元に戻したのかが分からなかったからだ。分からないうちに開けてしまえば、どちらだったのかが永久に分からなくなる。封筒を懐に入れた。革包丁も一本、布に巻いて荷に足した。
◇
荷馬車は、街の東で借りた。御者は木型の数を見て、値を二度言い直した。二度目のほうが高かった。木型は見た目より重い。楢だからだ。積み終えて行き先を告げようとしたとき、荷台の奥で音がした。
「……重すぎ」
木型の隙間から、手が出てきた。それから頭。十五かそこらの娘だった。髪に削り屑がついている。
「荷物、重すぎ。奥様、十年ぶんの死体でも運んでるんですか」
「木型です」
「きがた」
「靴を作るための、足の形です」
「へえ。じゃあ死体の足だけってことですね」
「木です」
娘は荷台から降りて、埃を払った。裸足に布を巻いている。この寒さで、である。布は何度も巻き直した跡があって、右のほうが厚かった。
「あなた、どこの子」
「どこのでもないです。パン屋のとこで皿洗ってました」
「向かいの」
「そう。三日前にクビ。皿は割ってません。口が悪いからって」
「なるほど」
「そこ、否定してくれるところですよ」
御者が荷台の縄を締め直しながら、こちらを見ていた。
「奥様、行き先どこですか」
「北です」
「じゃあ北で」
「働き口の話はしておりません」
「してくださいよ」
娘は荷台に戻って、木型の隙間に座り直した。追い出す理由を探したが、うまく見つからなかった。人ひとりぶんの重さで馬が遅くなるほど、この荷は軽くない。
「名前は」
「ノラ」
「家は」
「ないです。その質問、みんなするんですけど、あってもなくても皿は洗えるので」
御者が咳払いをした。
「奥さん、出しますよ。北ってのは、どこまでで」
わたくしは懐から封筒を出した。紋を見た。それから、しまった。
「ノルデンまで」
◇
北へ行くほど、坂が増えた。
二日目の宿で、ノラは布を巻き直していた。わたくしが見ていることに気づくと、足を引っ込めて、何事もなかったような顔で立ち上がった。
「奥様、見世物じゃないんですけど」
「そうですね」
「そこも否定するところですよ」
三日目に雪になった。轍が凍って、車輪が跳ねる。木型がぶつかり合う音が、荷台でずっと鳴っていた。
四日目に、街が見えた。
ノルデンは、斜面に建っている。表通りが階段になっているような街だ。荷馬車は途中までしか上がれず、そこから先は木型を四回に分けて運んだ。
「奥様。これ、全部運ぶんですか」
「はい」
「宿代より運び賃のほうが高くつきますよ」
「そうですね」
「言ってて悲しくならないんですか」
「なりません」
運びながら、すれ違う人の足元を見ていた。癖だ。人の顔より先に足を見るので、後で顔を思い出せないことがある。
「奥様。さっきから、下ばっかり見てますけど」
「見ています」
「何が見えるんですか」
「この街の人は、爪先の縫い目が割れています」
ノラは足を止めて、前を行く男の靴を覗き込んだ。あまり露骨だったので、男が振り返った。
「……割れてますね」
「上りで、指に力を入れるからです。王都では踵の外側から減りますが、ここは逆です」
「逆だと、何か困るんですか」
「縫い目が割れると、そこから雪が入ります」
「濡れますね」
「濡れるだけなら乾かせばよいのです。ただ、濡れた革は伸びます。伸びた靴は、履くたびに足を少しずつ動かします」
「動くと」
「一年で、足の形が変わります」
ノラは自分の足を見た。布の巻いてあるほうを、少し後ろへ引いた。
「……その話、あんまり聞きたくないです」
「では、やめておきます」
「いや、続けてください。中途半端が一番いやです」
「靴が悪いのではありません。合っていないだけです。それだけの話です」
宿の二階に部屋を取って、木型を壁際に積み上げた。積み上げると、部屋がずいぶん狭くなった。ノラが寝る場所は、木型と壁の隙間しかなくなった。
「あたし、ここで寝るんですか」
「嫌なら下でも構いませんが」
「いや、いいです。囲まれてるほうが落ち着くので」
ノラは窓際に座って、外を見ていた。
「奥様。この街、坂しかないですね」
「ええ」
「みんな、よく歩けますね」
「歩けていない人もいます」
わたくしは窓の外を指した。通りの向かいを、大きな男が歩いていた。背が高い。外套の下に杖をついている。
歩き方が、斜めだった。
左足を出すたびに、身体が半分だけ前に出る。そのぶんを右で戻す。雪の上に残った足跡が、二本の線ではなく、一本の折れ線になっていた。
「雪が深いのでしょう」
わたくしはそう言って、窓を閉めた。ノラは何も言わずに、まだ外を見ていた。
明日は、貸してもらえる店を探します。坂の下のほうが、家賃は安いそうです。




