第1話 踵の減り方
旦那様の靴の踵が、左だけ減っておりました。
わたくしの家の階段では、そんな減り方はいたしません。
踵の、外側だけが減っている。
わたくしは旦那様の靴を灯りにかざして、しばらく黙っていた。左だけ。それも、この半年でついた新しい減り方だ。
うちの階段は緩い。この減り方をするには、もっと急な段を、毎晩のように上らなければならない。
「奥様。お茶をお持ちしましょうか」
戸口に、使用人頭のバルトが立っていた。
「いえ。結構よ」
「もう遅うございます」
「これだけ見たら終わりにします」
中敷きを剥がすと、爪先に詰め物が入っていた。わたくしが入れたものではない。端革を二つ折りにして、糸で留めてある。
縫い目が、揃っていない。
「バルト」
「はい」
「旦那様の靴を、どなたかにお預けになったことは」
「私の知るかぎりでは、ございません」
「そう」
こういう縫い方をする人を、わたくしは知らない。十年、この家の男たちの靴は全部わたくしが作ってきて、一度も見たことのない手だった。
詰め物を元の位置に戻す。中敷きを貼り直す。埃を落として、箱に入れる。
「奥様。何か、不具合でも」
「いいえ。よく履いていらっしゃいます」
この家で「ありがとう」と言われたことは、十年、一度もない。それでも靴は嘘をつかないから、わたくしはそれでいいと思ってやってきた。
今日も、そう思うことにした。
◇
夕食の席には、義母が先に座っていた。レーベン伯爵夫人グレーテは、わたくしが部屋に入ると顔を上げ、それから、いつもどおり視線を下へ滑らせた。裾。靴。そのあたりで止まる。
この人はいつもわたくしの足元を見る。十年前、嫁いできた日からそうだった。
「靴屋の娘というのは、食卓でもそういう歩き方をするのね」
「そういう歩き方、と申しますと」
「かかとから置くのよ、あなたは。使用人みたい」
「かかとから置かないと、膝が保ちませんので」
「そういうことを、食卓で言うのはおやめなさい」
わたくしは椅子を引いて座った。旦那様は遅れて来た。椅子に腰を下ろすとき、右の手で卓の縁を掴んだ。掴まなくても座れる人だったのに、と思ったが、口には出さない。給仕が下がって、扉が閉まる。
「リディア」
旦那様が名前を呼んだ。名前で呼ばれるのは久しぶりだった。
「離縁したい」
スープの表面が、少しだけ揺れた。
「セリーヌと、正式にしたいと思っている」
「セリーヌ様」
「母の従妹の娘だ。何度か、この家にも来ている」
「存じております。春に、玄関でお会いしました」
「そうか」
旦那様は、それきり言葉を探すのをやめた。卓の上を、紙が滑ってくる。角がわたくしの皿に当たって止まった。
「書類はここに置いておく。君の署名だけあればいい」
「承知いたしました」
「……ずいぶん、あっさりしているな」
「では、時間をいただいたほうがよろしいですか」
「いや」
旦那様は首を振った。
「明後日から儀典の準備で王宮に詰める。今月は戴冠十年の式典があって、立ち通しになる。そういう時期に、家のことで揉めたくない」
「立ち通し、というのは、何刻ほどでしょう」
「四刻はある。なぜだ」
「いえ」
四刻。今の靴では、保って三度だ。四度目には左の親指の付け根が潰れる。だから来月ぶんの型直しを、もう半分ほど進めてある。
言わなかった。言えば、引き止めているように聞こえる。義母が匙を置いた。音を立てずに置ける人だ。
「十年もいて子ができなかったのだから、あなたにも思うところはあるでしょう」
「ええ」
「まあ。素直ね」
「お義母様は、なんとおっしゃると思っていらっしゃいましたか」
「……いいえ。何も」
義母は少し笑った。わたくしが泣くか、怒るか、すがるかのどれかをすると思っていたのだろう。三つとも、この十年で一度もしたことがないのだが。わたくしはペンを借りて、その場で署名した。
署名が乾くまでのあいだ、誰も何も言わなかった。旦那様はスープを飲んでいた。飲みながら、時々、左の足首を椅子の脚に押しつけていた。痛いときの癖だ。十年見ていれば、覚える。紙を返した。
「旦那様。ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「お靴は、どういたしましょう」
旦那様は、わたくしを見た。
「靴?」
「はい」
「……好きにしてくれ。そんなものは、いくらでも作らせる」
「かしこまりました」
それは、質問の答えにはなっていなかった。けれど、答えになっていないと分かるためには、靴のことを知っていなければならない。
「では、明日の朝に出ます」
「ずいぶん急ね」
「荷物が多いので、早いほうがよろしいかと」
義母がまた笑った。荷物、という言葉を、着替えの話だと思ったのだと思う。
◇
その夜、わたくしは工房の鍵を開けた。屋敷の北側の、日の当たらない部屋。嫁いできた翌年に、使っていない物置を貸してもらった。貸してもらった、というより、誰も欲しがらなかったのを引き取った。
灯りを持って入ると、壁が一面、影で埋まる。
木型だ。
人の足の形に彫った、木の塊。棚に並べて、名札を下げてある。旦那様。お義父様。義弟様。使用人頭のバルト。厨房のクラウス。門番の親子。夏用と冬用で分けてあるものもあるから、名前の数より本数のほうがずっと多い。
十年ぶんの足が、そこに並んでいた。
わたくしはひとつ手に取った。旦那様の、冬用。持つと、右の親指の付け根のあたりが少し出っ張っているのが分かる。この人はここに体重を乗せる癖がある。だから外側が減る。だから右の甲を高くして、左の中敷きを一枚厚くする。
そういうことを、この人は知らない。知らなくていいように作るのが、こちらの仕事だ。台車を引いてきて、下の段から順に積んだ。
「奥様」
振り返ると、バルトが立っていた。
「それは……」
言いかけて、やめた。この人は物言いを心得ている。
「持って出ますよ」
「……はい」
「木型は、彫った職人のものです。父の代からそうしてまいりました」
「存じております」
「ご存じでしたか」
「先代の旦那様が、そうおっしゃっておいででした。『あれは預かっているだけだ』と」
わたくしは手を止めた。お義父様は、この部屋に一度だけ来たことがある。何も言わずに棚を見て、何も言わずに出ていった。
「バルト。あなたのぶんは、置いていきます」
「……よろしいのですか」
「あなたの足は、まだ変わりますから。二年ほどで彫り直しが要ります」
「では、二年後に、どちらへ伺えば」
「決まりましたら、お報せします」
バルトは深く頭を下げた。それから、台車の下に手を添えて、敷居のところを持ち上げてくれた。
「奥様。旦那様は、ご存じなのでしょうか」
わたくしは少し考えた。
「書類には、木型のことは書いてございませんでした」
バルトは黙った。台車の車輪が、廊下の石を叩いた。がら、がら、と鳴る。夜の屋敷はよく響く。誰か起きるかと思ったが、誰も出てこなかった。厨房を抜けて、裏の門まで運ぶ。二往復した。三往復目で、棚は空になった。
空の棚というのは、思っていたより広い。最後に灯りを持って部屋を見回した。名札だけが、外し忘れた分の何枚か、まだ棚板に残っている。旦那様、と書いたわたくしの字。外して、懐に入れた。
◇
門を出るとき、母屋の二階の窓に、灯りがひとつ点いていた。義母の部屋だ。カーテンの隙間が、指の幅ほど開いている。わたくしは会釈をした。見送ってくださるのなら、しないのは失礼だと思ったからだ。灯りは、しばらく動かなかった。
それから、隙間が閉じた。わたくしは台車の柄を握り直して、坂を下りはじめた。車輪が石を叩く音が、屋敷の壁に跳ね返って、ずいぶん後ろまでついてきた。
明日は、荷車を一台借りに行きます。十年ぶんは、思ったより重いのです。




