第21話 父の理由
その手紙を出したのは、雪が消えた日だった。荷の底に、二通入っていた。一通は義母のもの。もう一通が、十年前の春の日付のものだ。
義母のほうは、開けないまま箱に入れた。読まなくても中身は分かる。三日前に、本人が同じことを言いに来た。もう一通を、灯りの下に置いた。北の、雪の結晶をかたどった紋。ガイスト。
「アーベル様」
「なんだ」
「これを、ご覧いただけますか」
その方は、封筒を受け取って、紋を見た。それから、日付を見た。しばらく、動かなかった。
「……父の字だ」
「先代様の」
「ああ。この癖は、間違いない。『ガ』の跳ねが下へ落ちる」
その方は、封筒を裏返した。
「開けていないのか」
「開けておりません」
「なぜ」
「父が開けなかったのか、開けて戻したのかが分かりませんでした。分からないうちに開けると、どちらだったのかが永久に分からなくなりますので」
その方は、封の部分を、灯りに近づけた。近づけて、少し目を細めた。
「アルンド」
「はい」
「これは、一度切ってある」
わたくしは灯りを寄せた。封蝋の縁が、わずかに欠けている。欠けた部分に、色の違う蝋が乗っていた。溶かして継いだ跡だ。丁寧にやってある。丁寧すぎて、十年、気づかなかった。
「……父は、読んだのですね」
「読んで、閉じ直した」
「はい」
「読んで、返事を書かなかった」
「そのようです」
その方は、封筒をこちらへ返した。
「開けてくれ」
「よろしいのですか」
「俺の家から出た手紙だ。中身は、たぶん俺のことだ」
◇
封を開けるのに、少し手間取った。継いだ蝋は、元の蝋より硬い。刃を入れると割れる。割れると、破片が紙にかかる。息で払った。
紙は一枚だった。
――アルンド殿。
――息子が北の戦で左脚をやられた。膝から下だ。王都から名医を三人呼んだが、骨は戻らぬという。骨が戻らぬなら、戻らぬままで歩ける靴が要る。
――貴殿の名は、王都の者から聞いた。「あの男は足を見る」と。
――値は問わぬ。北まで来ていただけぬか。息子はまだ二十四だ。
ガイスト
短い手紙だった。
字は大きい。行が斜めに下がっている。急いで書いた字だ。清書していない。清書する余裕がなかったのだろう。わたくしは、二度読んだ。
「……二十四か」
アーベル様が、そう言った。
「若いな」
「はい」
「自分のことなのに、他人の話に聞こえる」
その方は、上がり框に座った。
「父は、この手紙のことを何も言わなかった。俺は、名工を呼んだことしか知らん」
「先代様は、いつ」
「五年前だ。最後まで、俺の足のことを口にしなかった」
わたくしは、紙を灯りの下に置いた。紙の右下に、細かい書き込みがある。父の字だ。鉛筆で、薄く。
――彫れず。
二字だけだった。
鉛筆は薄い。薄いのは、力が入らなかったからだ。父の字は、若いころは深かった。紙の裏へ跡が残るほど押しつけて書く人だった。この二字には、裏に跡がない。
◇
わたくしは、帳場から父の帳面を出した。三年ぶりに開いたのは、半年前だ。今日は、二度目になる。後ろのほうの頁を繰った。王国靴商法 第九条。父はこれを二度書き写している。一度目は若いころの字で。二度目は、震えた字で。
二度目の日付を見た。十年前の、春。手紙と、同じ月だった。
「アーベル様」
「なんだ」
「父は、この頃から手が震えておりました」
「震える」
「はい。革包丁を持てなくなっておりました。店を閉めたのは、その二年後です」
わたくしは帳面を閉じた。
「この手紙が来たとき、父はもう彫れなかったのだと思います」
その方は、しばらく黙っていた。
「断りの手紙も、書かなかったんだな」
「はい」
「なぜだ」
「……分かりません」
分からない、と申し上げてから、少し考えた。
「書けば、終わったことになりますので」
「終わった」
「彫れないと書けば、そのとおりになります。書かなければ、まだ、なっておりません」
その方は、天井のほうを見た。
「ずるいな」
「ずるうございます」
「あんたと同じだ」
「はい」
「アルンド。ひとつ、教えてもいいか」
「はい」
「父から聞いた話だ。あんたの親父が、御用達を返上した理由だ」
わたくしは手を止めた。
「ご存じで」
「父が、王都の者から聞いてきた。……確かかどうかは分からん」
「伺います」
その方は、少し言いにくそうにした。
「王太子殿下の靴を作ったとき、殿下の歩き方が悪いと言ったそうだ」
「歩き方」
「右に体重が乗りすぎている。このままだと三十で膝が壊れる、と」
「……それは」
「言ってはならんことだったらしい。王家の身体のことを、職人が口にするのは」
灯りの芯が伸びて、煤が出ていた。わたくしは芯を少し落とした。
「殿下は、いま国王陛下でいらっしゃいます」
「そうだ」
「おいくつでしょう」
「四十一だ」
「……膝は」
「三年前から、階段は使われていないと聞く」
しばらく、誰も何も言わなかった。外で、雪解けの水が流れていた。もう樋の音ではない。地面を流れる音だ。春になる。春になれば道が乾く。道が乾けば、靴の傷み方が変わる。傷み方が変われば、直し方も変わる。
毎年そうだった。父の店でも、そうだった。
「アルンド」
「はい」
「あんたの親父は、正しかったわけだ」
「はい」
「正しかったから、干された」
「そのようです」
「……理不尽な話だな」
「いいえ」
わたくしは首を振った。
「父は、たぶん、同じことをもう一度言います」
「なぜそう思う」
「二度、書き写しておりますので」
その方が、こちらを見た。
「震える手で、もう一度書いております。第九条を。木型は職人のものだ、という条文を」
「……それは」
「もう彫れないと分かったあとに、書いております」
わたくしは帳面を撫でた。革表紙が固い。三年、閉じたままだったからだ。
「父は、たぶん、わたくしに読ませるつもりでした」
その方は、封筒を見ていた。
「十年前の春だ」
「はい」
「その年に、あんたは嫁いだ」
「はい」
「もし、この手紙に返事があったら」
その方は、そこで止めた。止めたのは、たぶん、続きを言うと嘘になるからだ。もし父が受けていれば、わたくしは十年前に北へ来ていた。来ていれば、この方は十年ぶんを歩けた。
ただ、その場合、わたくしは婚家に嫁いでいない。嫁いでいなければ、十年ぶんの木型もない。木型がなければ、この店はない。どこかを直せば、どこかが崩れる。人の身体と同じだ。
「アーベル様」
「なんだ」
「十年、遅くなりました」
その方は、すぐには答えなかった。それから、こう言った。
「間に合っている」
◇
その夜、わたくしは手紙を封筒に戻した。戻して、抽斗の二段目に入れた。この店の抽斗は、まだ湿気で膨らんでいない。すんなり閉まった。父は、この仕事を受けなかった。受けられなかったのだから、仕方がない。
ただ、十年遅れで、同じ足に同じ靴を作ったのは、父の娘だった。それは、たまたまだ。たまたまだが、たまたまにしては、少し出来すぎている。わたくしは灯りを消さずに、糸車の前に座った。
まだ直す靴が二十二足ある。二十二足のうち、十九足は片方しか減っていない。減っていないほうを、どう扱うかは決めていない。決めるのは、測ってからだ。
軍務府から、通知が届く頃でございます。




