第20話 旦那様の足に合う靴は、もうどこにもございません
旦那様が来たのは、義母が発った三日後だった。馬車ではなかった。乗合の便で、坂の下で降りて、そこから歩いて上ってきたという。歩いて上ってきた、と聞いたときに、わたくしは手を止めた。
この街の坂を、あの足で上ったのか。
◇
扉を開けたとき、その人は庇の下に立っていた。三月ぶりだ。王都ですれ違ったときは、外套の背中しか見ていない。痩せていた。それより先に、立ち方が変わっていた。右に傾いている。左の踵を、地面に置いていない。
「入ってもいいか」
「どうぞ」
その人は、土間に入って、上がり框に腰を下ろした。下ろすとき、右手で縁を掴んだ。掴まなくても座れる人だった。三月前は。ノラが奥から出てきかけて、わたくしを見て、また引っ込んだ。この子は、今日は最初から音を立てなかった。
「話は、母から聞いたか」
「伺いました」
「そうか」
その人は、しばらく土間を見ていた。
「……ここで、作っているのか」
「はい」
「狭いな」
「北の家賃は安うございます」
同じ答えを、三日で二度した。
「リディア」
名前で呼ばれた。二度目だ。一度目は、離縁を告げられた夜だった。
「靴を、作ってくれないか」
わたくしは、糸車の前から立ち上がった。
「拝見してもよろしいですか」
「何を」
「今、お履きのものを」
その人は、少し迷ってから、両方を脱いだ。三軒目の職人の靴だ。見覚えのある仕立てだった。革は良い。縫いも良い。ただ、内側がもう潰れている。二月でこうなる靴は、良い靴とは言わない。
外から見れば立派だ。中を見なければ、誰も気づかない。この国の靴は、たいていそうできている。わたくしは中に指を入れた。親指の付け根の位置が、ずれていた。靴のほうがずれているのではない。足のほうが動いている。
「これは、何日お履きに」
「二月ほどだ」
「その前のものは」
「捨てた」
「その前は」
「……全部、捨てた」
「お足を、拝見いたします」
靴下を脱いでいただいた。左の親指の付け根に、古い傷がある。皮が剥けて、また塞がった跡だ。塞がった皮は硬くなっている。硬くなった皮は、次に当たるとき、もっと痛む。右の親指の付け根が、外へ出ていた。
三年前より、指の幅ひとつぶん。左も出ている。左のほうが少ない。少ないのは、左に体重を乗せていないからだ。乗せていない足は、変形しない代わりに、細くなる。わたくしは巻き尺を取った。
◇
足長を測る。
右。左。
次に、指の付け根の幅。右。
止まった。
巻き尺の目盛りを見る。もう一度見る。指を当て直す。当て直しても、目盛りは動かない。三年前の控えを、わたくしは覚えている。書いた数字は、頭に入っている。十年ぶん、全部入っている。
合わない。
もう一度測った。
同じだった。
「どうした」
「……はい」
「合わないのか」
わたくしは巻き尺を巻き取った。
「旦那様。木型は、この店の奥にございます」
「そうか。では」
「十年ぶん、ございます。夏用と冬用。三年に一度、彫り直しております」
「なら」
「合いません」
その人が、顔を上げた。
「合わない、というのは」
「今のお足に、あの型は合いません」
「三年前のもので、まだ」
「三年前の型は、三年前のお足のものでございます」
◇
わたくしは、奥の棚の布を取った。二列の木型が並んでいる。上の段が古い。下の段が新しい。名札は全部わたくしの字だ。その人は、上がり框から立ち上がって、そこまで来た。来て、止まった。
「……これは」
「旦那様のものです。ここから、ここまで」
わたくしは、六組を指した。
「その隣が、お義父様。その下が、義弟様。バルト。クラウス。門番の親子」
「門番の」
「はい」
その人は、棚を端から端まで見ていた。見ている時間が、思っていたより長かった。棚は二段。木型は五十四本。名札は五十四枚。書いたのは全部わたくしだ。書いた日付も入っている。
この人は、その日付を読んでいる。読んでいるのが、こちらからは分かった。
「これを、全部あんたが」
「はい」
「いつ」
「夜でございます」
「……夜」
「昼は、屋敷の仕事がございましたので」
その人は、棚に手を伸ばしかけて、止めた。
「触っても」
「どうぞ」
自分の型を取って、両手で持った。ヨルクと同じ持ち方だった。重さを確かめる持ち方だ。
「重いな」
「楢でございます」
「……これで、俺の靴を作っていたのか」
「はい」
「十年」
「はい」
「作ってくれ」
その人は、木型を持ったまま言った。
「金は払う。言い値でいい。……いや、そうじゃない。頼む」
「旦那様」
「頼んでいる」
「その型では、作れません」
「では新しく彫ればいい。あんたなら彫れるだろう」
「彫れます」
「なら」
「彫っても、一年は合いません」
その人が、木型を持つ手を下ろした。
「一年」
「三年ぶん、骨が動いております。動いたところに合わせて彫れば、その靴は、動いた足をそのまま固めます」
「固めると」
「来年、もっと出ます。再来年、さらに」
わたくしは、木型を受け取って、棚へ戻した。
「先に、止めなければなりません。止めるのに、一年かかります」
土間の隅で、革の切れ端が風に動いた。戸が少し開いている。閉めるべきだが、動かなかった。その人は、しばらく何も言わなかった。
「……一年、俺はどうすればいい」
「痛みます」
「痛むのは分かっている」
「立てません」
「立てないと、仕事にならん」
「はい」
わたくしは、棚の布を戻した。
「旦那様の足に合う靴は、もうどこにもございません」
土間が、暗くなった。日が傾いただけだ。
「わたくしが作った型の中にも、この国のどこにも、今のお足に合うものは一足もございません」
その人は、動かなかった。
「三年、止めておりました。止めていたものが、止まらなくなっただけでございます」
「……なぜ、言わなかった」
その言葉が出るまでに、ずいぶん間があった。
「三月に一度、お預かりしておりました」
「知っている」
「あのとき、中を彫って逃がしておりました」
「知らん」
「はい。存じ上げないと思っておりました」
「言えばよかっただろう」
「訊かれませんでした」
その人は、そこで初めて、こちらを見た。十年、この人がわたくしの顔をまともに見たことは、たぶん、数えるほどしかない。
「……訊けば、教えたのか」
「はい」
その人は、上がり框に座り直した。座って、自分の足を見ていた。三十二年で初めて見たものを、まだ見慣れていない顔だった。
「リディア」
「はい」
「一年、止めることはできるのか」
「できます」
「あんたにしか、できないのか」
「いいえ。中を見る職人なら、どなたでもできます」
「三軒とも、見なかった」
「見る習慣がないだけでございます。悪いことではありません」
その人は、少し笑った。笑い方が下手だった。
「……あんたは、最後まで誰も悪く言わないな」
「言っても、直りませんので」
その人は立ち上がった。立ち上がるのに、二度かかった。
「では、頼めるか。一年の、止めるほうを」
わたくしは、少し考えた。
「三月に一度、お靴をこちらへお送りください。二日でお返しします」
「北まで」
「はい」
「……遠いな」
「ええ」
「母も同じことを言われたそうだ」
「そのようでございます」
その人は、扉のほうへ歩いた。歩いて、止まった。
「新しく測り直せば、いつか作れるのか」
「作れます」
「いつだ」
「何年かかるかは、分かりません」
その人は、頷いた。それから、出ていった。
◇
坂を下りていく音が、しばらく聞こえていた。踵から落ちる音だ。左だけが軽い。三月前と同じだった。坂は下りのほうがきつい。この人は下りを知らない。王都は平らだ。平らな街で三十二年暮らせば、下り方を覚える機会がない。
乗合の便まで、あと二百歩ある。ノラが、奥から出てきた。
「奥様」
「はい」
「作るんですか、結局」
「止めるほうを、承りました」
「作るほうは」
「まだ、承っておりません」
わたくしは糸車の前に座った。
「ノラ。楢の材が、あと何組ございましたか」
「三組です」
「そうですか」
三組ある。一組は、いずれ組合長のものになるだろう。もう一組は、まだ決めていない。残りの一組を、どうするかも。
三月に一度、お靴が届くことになりました。作るほうは、まだでございます。




