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旦那様の足に合う靴は、もうどこにもございません  作者: 柊木ましろ


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19/23

第19話 義母が来る

 客は、ガイスト家に泊まっていた。辺境伯の屋敷に泊まる王都の客というのは、そう多くない。だから使いが坂の上から来た。


 翌朝、工房の前に馬車が停まった。


 降りてきたのは、レーベン伯爵夫人グレーテだった。


 馬車は借り物だった。塗りが剥げている。王都から乗り継いで来たのだろう。北へ来る便は少ない。乗り継ぎは三度ある。若い人でも三日はかかる。三月ぶりに見る顔だ。


 旅で疲れているのだろう。頬が落ちている。それでも背筋は真っ直ぐだった。この人は、屋敷の廊下でも背筋を崩さない。土間に入って、まず足元を見た。わたくしの足元だ。十年、そうしてきた人の癖だ。


「……こんなところにいたの」


「ご無沙汰しております」


「工房というから、もう少しましなものかと思っていました」


「北の家賃は安うございます」


 グレーテ様は、土間を見回した。籠。棚。作業台。ノラ。


「あの子は」


「ノラと申します。弟子でございます」


「弟子」


「はい」


 ノラが、こちらを見た。挨拶をすべきか迷っている顔だった。わたくしは、小さく首を振った。ノラは奥へ引っ込んだ。引っ込むとき、今日は音を立てなかった。


「お座りになりますか」


「結構です。すぐに済みますから」


 グレーテ様は、外套を脱がなかった。


「用件を申し上げます。戻ってきなさい」


「戻る、と申しますと」


「レーベンにです」


 わたくしは糸車の前に座った。座ってから、手は動かさなかった。この人が屋敷の外で立っているのを見るのは、初めてだ。屋敷では、いつも椅子に座っていた。座って、入ってくる者の足元を見た。立っていると、少し背が低い。


「離縁いたしました」


「知っています。私も署名の場におりました」


「では」


「話が変わりました」


 グレーテ様は、そこで一度、息を吸った。


「ヴァルターが、立てません」


「儀典官を外されました。先月です」


「そうですか」


「そうですか、ですって」


「はい」


 グレーテ様の眉が動いた。動いたが、声は上がらなかった。この人は、屋敷でも声を上げない。


「あの子は、立つのが仕事です。立てなければ、何も残りません」


「はい」


「三軒の職人に頼みました。四軒目も頼みました。誰も作れない。……あなたのところにも来たそうですね」


「仲買の方がいらっしゃいました」


「断ったと聞きました」


「木型がございませんので、とお答えしました」


「木型は、ここにあるのでしょう」


 わたくしは奥の棚のほうを見た。布はかかっている。


「ございます」


「では、なぜ」


「渡しても、彫れる者がおりません」


 グレーテ様は、しばらく黙っていた。


「セリーヌは、役に立ちません」


 わたくしは糸車の縁を握った。


「あの子は悪い子ではないのです。ただ、家のことが何も分からない。分からないことが分からない」


「はい」


「あなたは分かっていた」


「靴のことだけでございます」


「靴だけではありません」


 その言葉は、少し意外だった。


「あなたがいなくなってから、屋敷の何が回っていたのかが、少しずつ分かってきました。……三月かかりましたけれど」


「そうですか」


「そうですか、ばかりね」


「申し訳ございません」


「謝らなくて結構です」


 グレーテ様は、そこで初めて視線を上げた。わたくしの顔を見た。顔を見られたのは、たぶん、十年で二度目か三度目だ。


「戻ってきなさい」


「お断りいたします」


「即答ですね」


「はい」


「理由を伺っても」


「工房がございます」


「こんな店」


「こんな店に、五十七人の方が靴を預けてくださっております」


 グレーテ様は、土間の籠を見た。五十七足はもう返してある。今は、新しい二十二足が入っている。


「……あなたは、そういう人でしたね」


「そういう人、と申しますと」


「数を数える人です」


  ◇


 土間は静かだった。奥でノラが息を殺している。籠の靴が、二十二足。壁の棚は空。作業台に革包丁が四本。この店の全部が、三月かかって集めたものだった。その方は、外套の前を直した。


「では、木型だけでも」


「お渡しできません」


「なぜ」


「王国靴商法 第九条により、木型は彫成した職人に属します」


「法の話をしているのではありません」


「では、何のお話でしょう」


 グレーテ様は、そこで言葉に詰まった。詰まったまま、しばらく立っていた。


「……あなたは、あの子を恨んでいますか」


 わたくしは、少し考えた。


「恨むというのが、何をすることなのかが、よく分かりません」


「そうでしょうね」


 その方は、少し笑った。笑ったのを見たのは、初めてだった。


「あなたは、十年、一度も顔色を変えなかった。私はそれが気味悪かった」


「存じております」


「知っていたのですか」


「靴屋の娘、と毎日おっしゃっておいででしたので」


 グレーテ様の口が、少し開いた。開いて、閉じた。


「……そう」


「はい」


「そうね。言っていました」


 その方は、扉のほうを向いた。向いて、それから、こちらを振り返らずに言った。


「私の靴も、あなたが作っていたのですか」


 わたくしは糸車から手を離した。


「はい」


「いつから」


「嫁いだ年からでございます」


「十年」


「はい」


「……知りませんでした」


「申し上げておりませんので」


 その方は、まだ扉のほうを向いていた。


「なぜ言わなかったの」


「訊かれませんでした」


  ◇


 わたくしは立ち上がって、その方の後ろへ回った。


「失礼いたします。お足元を」


「え」


「一歩、前へお進みください」


 グレーテ様は、戸惑いながら一歩出た。靴底が見えた。三年前にわたくしが作ったものだ。踵の外が少し落ちている。この方は右膝が悪い。悪いことを、たぶん誰にも言っていない。だから右で受けないように、左をわずかに厚くしてある。まだ、保っている。


「奥様」


「なんですか」


「お靴は、あと二年ほど保ちます」


 その方は、動かなかった。


「二年」


「はい。踵は減っておりますが、芯が生きております。二年目に踵を打ち替えれば、さらに二年」


「……それで」


「それだけでございます」


 グレーテ様は、振り返った。振り返って、何か言おうとして、言わなかった。わたくしも、それ以上は申し上げなかった。


 申し上げることは、もう無い。この方の靴があと二年保つ。それは、この方に対してわたくしが持っている、ただ一つの正確な情報だった。謝罪を求めたわけではない。求めても出てこないことは、十年で分かっている。その方は、扉を開けた。


 開けてから、一度だけ止まった。


「アルンド」


 名字で呼ばれたのは、初めてだった。


「はい」


「……二年後は、どうすればいいのですか」


 わたくしは、少し黙った。


「二年後にお持ちいただければ、打ち替えます」


「ここまで?」


「はい」


「北まで、靴を持って?」


「ええ」


 その方は、口の端を動かした。笑ったのかどうかは、分からなかった。


「……ずいぶん、遠いこと」


 扉が閉まった。馬車の音が、坂を上っていった。


  ◇


 ノラが、奥から出てきた。


「奥様」


「はい」


「あの人、なんて」


「二年後に、靴をお持ちになるそうです」


「持ってきますかね」


「存じません」


 わたくしは糸車を回した。


「ただ、あの方は、二年後も歩いていらっしゃいます。それだけは確かでございます」


 わたくしは糸を巻いた。巻きながら、あの方の靴の踵を思い出していた。外側が落ちている。落ち方が三年前と同じ角度だ。角度が同じなら、歩き方は変わっていない。歩き方が変わっていなければ、膝も三年前のままだ。


 悪くなってはいない。三年、同じ角度で減っている。外で、雪解けの水が樋を流れていた。音が、朝より大きい。春が近い。春が来れば、王都で式がある。

 王都からの客は、もうひと組、来るそうでございます。

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