第17話 指一本ぶんの嘘
ノルデンへ戻ったのは、四日後の夕方だった。店の錠は、預けたとおりに掛かっていた。宿の主人が鍵を返しに来て、そのついでに文句を言っていった。
「あんた、十日も空けたな」
「申し訳ございません」
「毎日、誰かしら来たぞ。うちの帳場で番号札を配ったんだからな」
「お手数をおかけしました」
「番号は五十七番まで行った」
わたくしは籠を数えた。四十三足で出て、五十七足になっている。増えたぶんは、土間の隅に積んであった。誰かが並べて置いてくれたらしい。
「主人。並べてくださったのは」
「ヘルマンの爺さんだ。毎朝来て、雪をかいて、靴を並べて帰る」
「頼んでおりません」
「頼まれてないから、やってるんだろう」
主人は帳場の紙束を置いて、帰っていった。紙には番号と、下手な靴の絵が描いてあった。ノラの書き方を、誰かが真似たらしい。絵のほうが早いことに、この街の人はすぐ気づいたのだろう。
◇
その夜から、五日かけて五十七足を直した。同じ直しが多い。爪先の甲を上げる。踵の芯を入れ替える。底の内を削って外を残す。三つを順に流すと、一足あたり半刻で済む。
半刻に一足なら、一日に十四足。五日で七十足。計算は合う。合うのは、眠らない前提の計算だ。三日目の夜に、指を切った。革包丁が滑った。深くはない。血が革につくと落ちないので、そちらのほうが困った。
寝る時間は、もともと削っていた。それでも足りないので、ノラに簡単なものを回した。糸の始末。革の裁ち。底の面取り。教えると、この子は三度で覚える。四度目には自分の手順を作りはじめる。
「ノラ。その順は」
「あ、すみません。逆でした」
「いえ。そちらのほうが早うございます」
「え」
「わたくしのは、父のやり方です。父は手が大きかったので、あの順のほうが持ちやすかったのです。あなたの手なら、その順で構いません」
ノラは、革包丁を持ったまま止まった。
「……変えていいんですか」
「合っているほうを使ってください。人に合わせるものですので、道具も」
◇
アーベル様が来たのは、六日目の朝だった。石畳用の靴を履いていらした。底を見せていただくと、右の踵の外が、少し多く減っている。
「アーベル様。右に、まだ逃げております」
「逃げる」
「体重が。十年、右で受けていらっしゃいましたので、癖が残っております」
「靴では直らんのか」
「靴では、乗る場所を作るところまでです。乗るかどうかは、ご本人です」
その方は、上がり框に座った。
「どうすればいい」
「三足目を作ります」
「三足目」
「はい。今度は、直すための靴でございます」
わたくしは板を一枚、土間に置いた。荒物屋だった頃の棚板の残りだ。長さは三歩ぶん。幅は肩幅より少し広い。それから、その板の左端に薄い革を貼った。指の幅の三分の一ほど。ごく薄い。
「この上を、ゆっくり歩いていただけますか」
その方は立って、板の上を歩いた。三歩で渡り切る。
「どうだ」
「もう一度」
二度目。三度目。四度目に、その方は言った。
「……左に、乗る」
「はい」
「乗せようとしなくても、乗る」
「傾けてありますので」
わたくしは板を拾い上げた。
「この傾きを、靴の中に入れます。ごく薄く、爪先寄りに。踏み込むたびに、身体が左へ半分だけ戻されます」
「無理に戻すのか」
「無理には戻しません。戻る癖を、少しずつ作ります」
「どのくらいで」
「一年でございます」
その方は、板を見ていた。
「一年か」
「はい。十年ついた癖です。一年は短いほうかと」
◇
三足目は、四日で仕上げた。傾きの入れ方が難しい。革を斜めに漉く。厚いほうを外に、薄いほうを内に。漉きすぎると、履いた初日に潰れる。足りないと、身体が気づかない。
試しに三枚漉いて、三枚とも捨てた。四枚目を使った。父なら二枚目で決めただろう。中敷きの下に敷いて、縫い留める。表からは何も見えない。見えないところで、床を半分だけ傾ける。
見た目は二足目とほとんど変わらない。中だけが違う。入れすぎれば膝に来る。足りなければ、身体が気づかない。
「履いてみてください」
その方は履いて、紐を締めた。立った。歩いた。土間を五歩。それから、外へ出た。坂を上って、下りてきた。今度は二十歩ずつ、四度。戻ってきて、上がり框の前で止まった。
「アルンド」
「はい」
「階段は、あるか」
◇
宿の階段を借りた。十二段ある。この街の階段は急だ。手すりは片側にしかない。アーベル様は、下の段に立って、しばらく上を見ていた。
「十年、ここは上ったことがない」
「はい」
「上ったことはある。降りたことがない」
「……上りより、下りのほうが難しゅうございます」
「そうなのか」
「下りは、着地するまで体重の行き先が決まりません。左が短ければ、その瞬間だけ床が消えます」
「床が消える」
その方は、その言い方に少し笑った。
「そうだ。消えるんだ。十年、そう思っていた」
階段は、この街の家ではどこも急だ。土地が斜めなので、家の中で高さを稼がなければならない。段は狭く、蹴上げが高い。健脚の者でも、下りは手すりを使う。
その方は、上った。
十二段。手すりに手は添えたが、体重は預けなかった。上り切って、こちらを見下ろした。それから、降りはじめた。一段目。手すりに手が触れている。
三段目で、手が離れた。
五段目。六段目。七段目。手は、宙にあった。
十二段目で、床に着いた。
その方は、しばらくそこに立っていた。わたくしは何も言わなかった。ノラも黙っていた。宿の主人が帳場から顔を出して、それから引っ込んだ。
「……骨は、治っていないんだよな」
「治っておりません」
「治っていないのに、降りられた」
「はい」
「それは、どういうことだ」
わたくしは巻き尺を持ったまま答えた。
「あなた様の左脚は、指一本ぶん短うございます。それは変わりません」
「ああ」
「ただ、あなた様が十年、歩けなかった理由は、そのうちの半分だけでございます」
「半分」
「残りの半分は、合わない靴で固まった歩き方です。骨は戻りません。でも、歩き方は戻ります」
その方は、階段の下から、上を見上げた。十二段ある。
「……十年、俺は、指一本ぶんの話だと思っていた」
「半分は、そうです」
「半分は、嘘だったわけだ」
「嘘をついた方は、おりません」
「そうだな」
その方は、そこで少し黙った。
「誰も、中を見なかっただけだ」
◇
工房へ戻る道で、ノラが後ろから言った。
「奥様」
「はい」
「あの人、泣いてました」
「そうですか」
「見なかったんですか」
「見ておりません」
嘘だ。階段の下で立っていたとき、その方は一度だけ、手の甲で目のあたりを拭った。見ていたが、見なかったことにした。そういうものは、たいてい、見なかったことにするほうがよい。坂の途中で、その方が追いついてきた。
その方の歩幅は、以前より広い。広いというより、揃っている。揃うと、雪の上の跡が二本の線になる。折れ線ではなくなる。十日前まで、この人の跡は一本だった。
並んで歩くと、歩幅が合った。合ってしまったので、わたくしは少し歩きにくかった。
三足目は「直すための靴」でございます。一年、履いていただきます。




