第16話 作れない靴
王都に残る三日で、父の工房を片づけることにした。売るためではない。三年ぶんの埃を落として、板戸を直して、鍵をかけ直す。それだけだ。放っておけば傷む。傷めば、いずれ売るしかなくなる。
板戸を外す。日を入れる。埃が舞う。舞った埃が落ちるまで、四半刻ほどかかる。落ちてから拭く。順を間違えると、二度手間になる。ノラが床を掃いていた。掃きながら、時々くしゃみをしていた。
「奥様。この埃、三年ぶんですか」
「そうです」
「三年で、こんなに積もるんですね」
「積もります。人が通らないところは、特に」
わたくしは棚板を外して、外に立てかけた。日に当てて乾かす。乾かしてから戻す。手順は父のやり方だ。理由は聞いていない。聞かずに覚えたことのほうが、たぶん多い。
◇
昼過ぎに、外で馬車が停まった。こういう通りに馬車が停まることは、あまりない。荷馬車ではなかった。塗りのある、小さな四輪だ。
降りてきたのは、若い女性だった。
外套の裾を持ち上げて、石畳の水たまりを避けて歩いてくる。避け方が上手ではない。裾ではなく、足の置き方を変えたほうが早いのだが、そういう歩き方を習っていない人なのだろう。
外套は仕立てが良い。裾が濡れていない。濡らさずに歩くのは難しい。馬車から店まで、十歩もないからできることだ。その方は、店の前で立ち止まって、看板を見上げた。それから、中を覗いた。
「あの、こちら、アルンドさんの」
「はい」
「よかった。開いてる」
その方は、ほっとした顔で入ってきた。入ってきて、わたくしの顔を見て、止まった。わたくしは、棚板を持ったままだった。持っていて助かった。手が塞がっていると、間が持つ。
「セリーヌ様」
「……あ」
その方は、扉のところで一歩下がった。それから、下がったことに気づいて、また前に出た。
「あの、」
「片づけの途中でございます。埃が立ちますので、そちらでお待ちください」
「あ、はい」
わたくしは棚板を外に立てかけて、手を拭いた。三年ぶりに見る顔だった。三年前より少し痩せている。目の下に、隠しきれない色がある。
「お座りになりますか」
「椅子が」
「ございません。父が譲ってしまいましたので」
「……あ、はい」
「どうして、こちらへ」
「仲買の方に伺ったんです。北にアルンドという靴屋があると。それで、王都の店を調べたら、ここが」
「そうですか」
「まさか、あなたが……いえ、あの」
その方は、そこで言葉を探した。探して、見つからなかったらしい。
「ごめんなさい」
「何のことでしょう」
「……いえ」
その方は、両手で外套の前を握っていた。わたくしは、それ以上訊かなかった。訊けば、答えなければならなくなる。答えれば、その方が困る。
「ご用件を伺ってもよろしいですか」
「はい。あの、靴のことで」
「婚礼の一対でございますね」
「ご存じで」
「北で伺いました。お受けできないと申し上げました」
その方は頷いた。
「知っています。仲買の方から聞きました」
「では」
「今日は、注文に来たんじゃないんです」
その方は、鞄から書付を出した。例の一枚だ。折り目が、前より一つ増えている。
「これ、あなたが書かれたんですね」
「はい」
「王都の職人さんが、三人とも同じことを言うんです。この寸法どおりに作ったのに合わない、と」
「合いません」
「なぜですか」
わたくしは布を畳んで、作業台の跡の上に置いた。
「三年前の数字でございます」
「はい。それは伺いました。……でも、それだけじゃないんですよね」
この方は、思っていたより察しがよい。
「三年前の数字が、なぜ三年前まで合っていたのか」
「え」
「そこが、たぶん、お知りになりたいことです」
その方は、書付を握ったまま、こちらを見た。
「三月に一度、お靴をお預かりしておりました」
「……三月に一度」
「はい。二日で返します。その二日で、中敷きを剥がして、当たりを見ます」
「当たり」
「革の内側に、跡がつきます。強く当たっているところは、毛羽が立ちます」
わたくしは自分の手のひらを見せた。ここ、と親指の付け根を指す。
「旦那様は、ここに体重が乗ります。乗れば、骨が外へ押されます。押されはじめたら、その位置の革を内から少し彫って、逃がします」
「逃がすと」
「そこは、止まります」
「止まる」
「はい。三年、止まっておりました」
その方は、まばたきを一度した。
「……それだけですか」
「それだけです。十年」
しばらく、誰も何も言わなかった。土間は狭い。三人立つと、もう動けない。ノラは奥に引っ込んでいる。息を殺しているのが分かった。外で、パン屋の女将が誰かと立ち話をしていた。声が高い。この通りの音だ。
「あの」
「はい」
「ヴァルター様は、そのことを」
「ご存じないと思います」
「言わなかったんですか」
「訊かれませんでした」
その方は、そこで初めて、少し怒った顔をした。怒られる筋合いはあると思ったので、黙っていた。
「……言えばよかったのに」
「はい」
「言えば、あの人だって」
その方は、そこで止まった。止まったのは、たぶん、続きが自分でも分かってしまったからだ。
「セリーヌ様。ひとつだけ、申し上げてもよろしいですか」
「はい」
「今からでは、間に合いません」
「……はい」
「三年ぶんの張り出しは、三月では戻りません。戻す方法はございますが、一年はかかります」
「一年」
「はい。式が春でしたら、間に合いません」
その方は、書付を鞄にしまった。しまうときに、端を指で揃えた。その手つきを、わたくしは知っている。三年前の玄関で、手巾を持っていた手だ。
「……あの、最後に一つ」
「はい」
「あなたは、怒っていらっしゃらないんですか」
わたくしは、棚板のほうを見た。日が傾いて、板の影が長くなっている。乾くまで、あと半刻はかかる。
「怒っております」
「え」
「ただ、あなた様に申し上げても、何も直りません」
その方は、口を開けた。それから、閉じた。深く頭を下げて、出ていった。馬車の音が遠くなった。
◇
ノラが、掃除の手を止めていた。
「奥様」
「はい」
「あの人、詰め物の人ですよね」
「そうです」
「言わなかったんですね。詰め物のこと」
「言う必要がございません」
「言えば、たぶん、すごく効いたと思いますけど」
「効きます」
わたくしは棚板を取りに、外へ出た。日が回って、板の片面だけが乾いていた。裏返す。乾いた面を内に向ける。反りは、乾き方の差から出る。
「効くことを言うと、こちらも同じだけ減ります」
◇
その晩、宿に手紙が届いていた。北からの転送で、封蝋はレーベンの紋。ただし、字が違った。義母のものだ。
――こちらの事情を、あなたも聞いていることと思います。話があります。戻ってきなさい。
三行だった。謝罪の行は、ない。わたくしは封筒を、荷の底へ入れた。父の手紙の隣に。開けていない手紙が、二通になった。
明日、北へ発ちます。四日かかります。




