第15話 名簿の足
軍務府は、王宮の東にある。石造りの、窓の小さい建物だ。中は暗い。廊下が長い。長い廊下の突き当たりに受付がある。行き着くまでに、人は少し疲れる。たぶん、そういう作りにしてある。軍務府の受付は、七刻半には開いていた。
開いていたが、誰も座っていなかった。八刻になって、若い書記が一人来た。それから二人。八刻半に、担当の役人が来た。中年の男で、名をブラントといった。書類の束を抱えている。抱えたまま、こちらを見た。
「ガイスト辺境伯」
「そうだ」
「……ご本人でいらっしゃいますか」
「本人だ」
ブラント様は、少し慌てて椅子を出した。出してから、書類を卓に置いた。
「三度目の申請でございますね。二十二名分」
「そうだ」
「結論から申し上げます。今回も、難しゅうございます」
「理由を聞かせてもらいたい」
「前回と同じでございます。規定第四条、『歩行可能な者は、労務不能に該当しない』」
「歩けるかどうかで決まるのか」
「歩けるかどうかで決まります」
ブラント様は書類をめくった。
「名簿を拝見しますと、二十二名のうち、十九名が『歩行可能』と記載されております」
「誰が記載した」
「地方の役所の、聞き取りでございます」
「歩けるかと訊かれれば、皆、歩けると答える」
「……はい」
「答えなければ、恥をかくからだ」
ブラント様は、書類から目を上げなかった。
「お気持ちは分かります。ですが、規定は規定でして」
そこで、アーベル様が立ち上がった。立ち上がって、杖を卓に立てかけた。それから、受付の端から端まで歩いた。二十歩ある。往復した。戻ってきて、真っ直ぐ立った。
「見てのとおり、俺は歩ける」
ブラント様が顔を上げた。
「……はい」
「三年前、俺の名も名簿に載っていた。今も載っている」
「はい」
「では、俺も対象外か」
「……そうなります」
「十年、まともに立てなかった。今は立てる。理由は靴だ。骨は治っていない」
ブラント様は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「辺境伯様。恐れながら、今のはこちらに有利な材料でございます」
部屋の空気が、少し変わった。
「歩けるようになる方がいらっしゃる、ということでございますから」
アーベル様の肩が、動いた。わたくしは、そこで前へ出た。
「ブラント様。恐れ入ります」
「……どちら様で」
「靴屋でございます」
ブラント様が、目を細めた。
「靴屋」
「はい。二十二名の方の靴を、お持ちしました」
わたくしはノラを見た。ノラが荷を解いて、袋を三つ、卓の下に並べた。
「なんの真似でございましょう」
「ご覧いただきたいのです。二十二足、全部でございます」
「見て、どうなさると」
「並べます」
◇
卓の上に、二十二足を並べた。どれも古い。十年前の軍靴だ。革は硬い。色は褪せている。縫い目が浮いている。臭いもある。ブラント様が、少し身を引いた。
二十二足のうち、十四足には持ち主の名が墨で書いてあった。書いたのは本人だろう。字が下手だ。残りの八足は無記名だった。無記名の靴も、持ち主は決まっている。減り方が全部違うからだ。
「順番を変えます」
わたくしは、底の減り方で並べ替えた。左端に、両方とも均等に減っているもの。三足ある。真ん中に、片側だけ減っているもの。右端に、片側がほとんど残っていて、もう片側が芯まで削れているもの。
「ブラント様。左の三足は、両足に体重が乗っております。この方々は、歩けます」
「はい」
「真ん中の十二足。片側の踵の外が、深く落ちております。これは、庇っている足です」
「庇う」
「痛むほうに体重をかけないよう、もう片方で受けております」
わたくしは真ん中の列を、少し前へ押し出した。十二足ある。どれも同じ形に減っていた。踵の外が落ちる。底の内が残る。爪先の縫いが片側だけ割れる。同じ怪我をした人は、同じ減り方をする。人が違っても、そこは変わらない。
わたくしは、右端の七足を指した。
「こちらは、片方が芯まで削れております。もう片方は、ほとんど新品でございます」
ブラント様は、身を乗り出した。
「……これは」
「片足だけで歩いておられます」
「靴は、履いた人の歩き方をそのまま写します」
わたくしは、一足を手に取った。
「この靴の持ち主は、右足を地面に着けておりません。着けていれば、右の底が減ります。減っていないということは、着けていないということです」
「……ですが、それは杖を使っておられるからでは」
「杖を使えば、杖のほうにも跡が出ます。ただ、杖は書類に添えられません」
わたくしは靴を置いた。
「靴は、添えられます」
ブラント様は、二十二足を順に見ていった。左から右へ。それから、右から左へ。
「これは、どなたが並べたのですか」
「わたくしです」
「作った職人でも、この見立てができるものですか」
「作る者は、直しもいたします。十年、同じ人の靴を直せば、その人の歩き方が全部分かります」
ブラント様は、右端の七足の前で止まった。止まって、動かなかった。片方だけが新品のように残った靴は、見ていて気持ちのいいものではない。残っているのは、使われなかったからだ。使われなかった理由が、その隣の一足に全部書いてある。
ブラント様は、書記を呼んだ。
「規定第四条の、施行の細目を持ってきてくれ」
「細目、でございますか」
「『歩行可能』の定義が、どこかに書いてあるはずだ」
書記が持ってきた冊子を、ブラント様はしばらくめくった。それから、指を止めた。
「……ございました。『歩行可能とは、日常の労務に耐える歩行をいう』」
「耐える歩行」
「はい。ただ歩けることではございません」
ブラント様は顔を上げた。
「辺境伯様。この二十二足を、証拠として添付できますか」
「できる」
「では、書式を変えます。『歩行可能』の欄ではなく、『労務耐性』の欄で出し直してください。こちらで細目を引きます」
アーベル様が、少し前に出た。
「通るのか」
「お約束はできません。ですが、三度同じ理由で戻すのは、こちらも本意ではございません」
ブラント様は、二十二足をもう一度見た。
「……正直に申し上げますと、私は、名簿の名前しか見たことがございませんでした」
◇
軍務府を出たのは、昼過ぎだった。アーベル様は、しばらく何も言わずに歩いていた。石畳を、まっすぐ歩いていた。
「アルンド」
「はい」
「あれは、あんたが考えたのか」
「靴を並べただけでございます」
「並べるまでが、考えたということだ」
昼の鐘が鳴った。王都の鐘は高い。北の鐘は低い。同じ金属でも、大きさで音が変わる。その方は、そこで立ち止まった。
「二十二人の顔を、俺は全部知っている。名前も知っている。それでも、三年、通せなかった」
「はい」
「あんたは、一人も知らない」
「存じません」
「なのに、通した」
わたくしは、少し考えた。
「わたくしは、足を存じております」
◇
通りを、貴族の馬車が過ぎていった。その少し先で、人が一人、こちらへ歩いてきた。黒い外套。背が高い。歩き方が、右に傾いている。左の踵を、地面に置くのを避けている歩き方だった。距離が縮まる。十歩。五歩。
顔を見ないでも分かった。歩き方は、顔より先に届く。すれ違った。わたくしは、頭を下げた。挨拶ではない。人とすれ違うときに、そうする癖がついている。その人は、こちらを見なかった。いや、見た。
わたくしの足元を、一度だけ見た。それから、そのまま行った。ノラが、袖を引いた。
「奥様。今の」
「靴が合っていらっしゃいません」
「そうじゃなくて」
「ええ」
わたくしは前を向いた。
「三年ぶりに拝見しました」
ノラは、それきり何も言わなかった。石畳の音が、後ろで遠くなっていった。踵から落ちる音だ。左だけが、少し軽い。
軽いのは、置いていないからだ。置けば痛む。痛むから置かない。置かなければ、そのぶん右が受ける。受けた右は、来年か再来年に壊れる。三年前まで、それを止めていたのはわたくしだった。今は、止める者がいない。
王都には、あと三日おります。




