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旦那様の足に合う靴は、もうどこにもございません  作者: 柊木ましろ


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12/23

第12話 儀典の列

 ヴァルター・レーベンは、その朝、三足目の靴を履いた。届いたのは前の晩だった。王都で三番目に古い工房のもので、値は前の二足より高い。箱を開けたとき、革の匂いがした。良い匂いだ。悪いものではない、と思った。


 履いてみて、少しきついと感じた。新しい靴はきついものだ。三日も履けば馴染むと、職人も言っていた。鏡の前で、立ち姿を確かめた。


 儀典官の仕事は、立つことだ。正しくは、立ったまま人に見られることだ。背が高いこと、肩が水平であること、爪先の向きが揃っていること。それだけで一年の給金が出る。ヴァルターはそれを恥じたことがない。誰にでもできる仕事ではない。


 鏡の中の自分は、少し左に傾いていた。姿勢を直した。傾きは消えた。着替えを手伝っていた従僕が、上着の裾を引いた。


「旦那様。よくお似合いです」


「新しい靴だ」


「存じております。三軒目の」


「余計なことを言うな」


「失礼いたしました」


 ヴァルターは、鏡から目を離した。三軒目という言い方が気に障った。三軒も回ったのは自分の落ち度ではない。職人の腕が落ちたのだ、と思うことにしている。


  ◇


 戴冠十年の式典は、四刻に及んだ。最初の一刻は、なんともなかった。


 二刻目に入って、左の親指の付け根が熱を持ちはじめた。熱は痛みではない。痛みの前触れだ。ヴァルターは体重を右へ移した。移してから、すぐに戻した。儀典官の列で体重を動かすと、肩が動く。肩が動くと、目立つ。


 三刻目に、右の膝が笑いはじめた。右で庇い続けたせいだ。庇う側は、庇われる側より先に疲れる。そんなことは知らなかった。三十二年、足のことを考えたことがなかった。考える必要がなかったからだ。


 三刻目の終わりごろ、隣の男が小声で言った。


「レーベン卿。肩が」


「なんだ」


「下がっておられます」


「……ありがとう」


 直した。直すと、今度は腰に来た。人の身体は、どこかを直すとどこかが崩れる。三十二年、そんなことは知らずに生きてきた。


 四刻目の途中で、国王が退場した。列は動かない。国王が扉を出るまで、列は動いてはいけない。扉まで、二十歩。


 国王は、ゆっくり歩く方だ。二十歩を歩き終えるまでに、ヴァルターの左足は、もう感覚が半分なくなっていた。感覚がないというのは楽なようで、実際には逆で、どこに体重が乗っているのかが分からなくなるぶん、身体はよけいに緊張する。


  ◇


 膝が折れたのは、国王が扉を出た直後だった。音はしなかった。ヴァルター自身、倒れたと思わなかった。ただ、視界の高さが変わった。石の床が近い。手をついていた。両隣は、動かなかった。


 儀典の列は、退場の合図があるまで動いてはいけない。それが規則だ。二人とも正面を向いたままだった。正しい姿勢だった。合図が出て、列が崩れたとき、ようやく後ろの若い者が駆け寄ってきた。


「レーベン卿。お怪我は」


「いや」


「お顔が真っ青です」


「大丈夫だ」


 立ち上がろうとして、左に力が入らなかった。二度目でようやく立った。


 誰も、なぜ倒れたのかを訊かなかった。


 訊かない理由は、ヴァルターにも分かっていた。式典で倒れた者に理由を訊けば、その理由がその者の弱みになる。だから皆、見なかったことにする。それが、この場所の作法だった。自分も、これまで同じようにしてきた。


  ◇


 屋敷へ戻って、靴を脱いだ。左の親指の付け根が、赤く腫れていた。皮が剥けている。靴下に血がついていた。ヴァルターは、しばらくそれを見ていた。こんなことは、一度もなかった。


 十年——正確には十年と少し、この足で立ってきた。式典で倒れたことなど一度もない。四刻など短いほうだ。去年の建国祭は五刻立った。それでも、なんともなかった。靴のせいだ。当然、そう思った。


「ヨルク」


「はい」


「この靴は駄目だ。返せ」


「三軒目でございますが」


「四軒目に頼め」


 家令は、すぐには動かなかった。


「……旦那様」


「なんだ」


「四軒目は、断られました」


「断られた?」


「北の工房でございます。木型がないので作れない、と」


 ヴァルターは靴下を脱ぐ手を止めた。


「木型」


「はい」


「木型など、作ればいいだろう。それが職人の仕事だ」


「三軒とも、作ったそうでございます。三つとも合わなかったと」


「では下手なだけだ」


 ヨルクは何も言わなかった。言わないことで、何かを言っていた。ヴァルターはそう感じたが、それが何かは分からなかった。


「ヨルク」


「はい」


「北の工房というのは、どこだ」


「ノルデンでございます」


「ノルデン。ガイストの領か」


「はい」


「なぜそんなところに頼んだ」


「三軒に断られましたので」


「……そうか」


 ヴァルターは、それで話を終えるつもりだった。終えなかったのは、ヨルクが動かなかったからだ。


「まだ何かあるのか」


「いえ」


「言え」


「……ございません」


 家令は頭を下げて、部屋を出ていった。扉が閉まる音が、いつもより長く残った。


  ◇


 二日後、医者を呼んだ。医者は足を見て、押して、しばらく黙った。押されると痛んだ。痛むのは、押されているところではない。少し離れた、土踏まずのあたりだった。


「ここも、お痛みですか」


「痛い。だが、そこは押していないだろう」


「押しておりません。庇っておられるところです」


「これは、いつからこうなっておられますか」


「二日前からだ」


「腫れは二日でしょう。骨の張り出しは、二日でこうはなりません」


「張り出し」


 医者は、親指の付け根を指した。


「ここが、外へ出ております。左右とも。右のほうが強うございますな」


「そんなはずはない」


「三年か、四年かけて、少しずつ出たものかと」


 ヴァルターは自分の足を見た。


 見たことがなかった。三十二年、自分の足の形を、まともに見たことがなかった。


「治るのか」


「削るわけには参りませんので」


 医者は道具をしまいながら、続けた。


「合う靴をお履きになることです。それだけで、止まります」


「合う靴を頼んでいる。三軒目だ」


「合わない靴を、三度お作りになったのですな」


「そうだ」


 医者は、少し困った顔をした。


「靴屋のことは、私には分かりかねます」


「では、どうしろと」


「腕のいい靴屋を、お探しになることです」


「三軒とも、名のある店だぞ」


「そうだ」


「……失礼を申し上げますが」


 医者は鞄の留め金を閉じた。


「名のある店は、名のある足を作ります。旦那様の足を作る店ではございません」


 ヴァルターは、その言葉の意味が分からなかった。分からないまま、医者は帰った。


  ◇


 その晩、セリーヌが部屋へ来た。手に紙を持っている。仲買から戻ってきた書付だった。


「ヴァルター様。北の工房も駄目でした」


「聞いた」


「春の式に、間に合いません」


「花嫁のほうは出来るのだろう」


「一対でないと、婚礼の靴になりません」


 セリーヌは書付を卓に置いた。置いてから、指で端を揃えた。


「……あの、伺ってもよろしいですか」


「なんだ」


「前の奥様は、どうやってお作りになっていたのですか」


 ヴァルターは、答えなかった。答えなかったのは、隠したからではない。知らなかったからだ。


 あの女は、いつ靴を作っていたのだろう。屋敷の北の、日の当たらない部屋にいたことは知っている。何をしていたのかは、知らない。訊いたことがない。


 三月に一度、靴を預けろと言われた。預けると、二日で戻ってきた。戻ってくると、なぜか楽になっていた。それだけだ。それだけのことが、十年続いていた。


「ヴァルター様」


「知らん」


「え」


「知らんと言っている」


 声が大きくなった。セリーヌが少し肩を引いた。


「……申し訳ありません」


「いや」


 ヴァルターは、卓の書付を見た。書付の下のほうに、細かい字が並んでいる。読めない字ではない。ただ、意味が分からない。「右、親指の付け根に体重。外側が減る」——なぜ、そんなことを書き留める必要があるのか。


 その字を、どこかで見た気がした。どこで見たのかは、思い出せなかった。

 次は、北の話に戻ります。

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