第12話 儀典の列
ヴァルター・レーベンは、その朝、三足目の靴を履いた。届いたのは前の晩だった。王都で三番目に古い工房のもので、値は前の二足より高い。箱を開けたとき、革の匂いがした。良い匂いだ。悪いものではない、と思った。
履いてみて、少しきついと感じた。新しい靴はきついものだ。三日も履けば馴染むと、職人も言っていた。鏡の前で、立ち姿を確かめた。
儀典官の仕事は、立つことだ。正しくは、立ったまま人に見られることだ。背が高いこと、肩が水平であること、爪先の向きが揃っていること。それだけで一年の給金が出る。ヴァルターはそれを恥じたことがない。誰にでもできる仕事ではない。
鏡の中の自分は、少し左に傾いていた。姿勢を直した。傾きは消えた。着替えを手伝っていた従僕が、上着の裾を引いた。
「旦那様。よくお似合いです」
「新しい靴だ」
「存じております。三軒目の」
「余計なことを言うな」
「失礼いたしました」
ヴァルターは、鏡から目を離した。三軒目という言い方が気に障った。三軒も回ったのは自分の落ち度ではない。職人の腕が落ちたのだ、と思うことにしている。
◇
戴冠十年の式典は、四刻に及んだ。最初の一刻は、なんともなかった。
二刻目に入って、左の親指の付け根が熱を持ちはじめた。熱は痛みではない。痛みの前触れだ。ヴァルターは体重を右へ移した。移してから、すぐに戻した。儀典官の列で体重を動かすと、肩が動く。肩が動くと、目立つ。
三刻目に、右の膝が笑いはじめた。右で庇い続けたせいだ。庇う側は、庇われる側より先に疲れる。そんなことは知らなかった。三十二年、足のことを考えたことがなかった。考える必要がなかったからだ。
三刻目の終わりごろ、隣の男が小声で言った。
「レーベン卿。肩が」
「なんだ」
「下がっておられます」
「……ありがとう」
直した。直すと、今度は腰に来た。人の身体は、どこかを直すとどこかが崩れる。三十二年、そんなことは知らずに生きてきた。
四刻目の途中で、国王が退場した。列は動かない。国王が扉を出るまで、列は動いてはいけない。扉まで、二十歩。
国王は、ゆっくり歩く方だ。二十歩を歩き終えるまでに、ヴァルターの左足は、もう感覚が半分なくなっていた。感覚がないというのは楽なようで、実際には逆で、どこに体重が乗っているのかが分からなくなるぶん、身体はよけいに緊張する。
◇
膝が折れたのは、国王が扉を出た直後だった。音はしなかった。ヴァルター自身、倒れたと思わなかった。ただ、視界の高さが変わった。石の床が近い。手をついていた。両隣は、動かなかった。
儀典の列は、退場の合図があるまで動いてはいけない。それが規則だ。二人とも正面を向いたままだった。正しい姿勢だった。合図が出て、列が崩れたとき、ようやく後ろの若い者が駆け寄ってきた。
「レーベン卿。お怪我は」
「いや」
「お顔が真っ青です」
「大丈夫だ」
立ち上がろうとして、左に力が入らなかった。二度目でようやく立った。
誰も、なぜ倒れたのかを訊かなかった。
訊かない理由は、ヴァルターにも分かっていた。式典で倒れた者に理由を訊けば、その理由がその者の弱みになる。だから皆、見なかったことにする。それが、この場所の作法だった。自分も、これまで同じようにしてきた。
◇
屋敷へ戻って、靴を脱いだ。左の親指の付け根が、赤く腫れていた。皮が剥けている。靴下に血がついていた。ヴァルターは、しばらくそれを見ていた。こんなことは、一度もなかった。
十年——正確には十年と少し、この足で立ってきた。式典で倒れたことなど一度もない。四刻など短いほうだ。去年の建国祭は五刻立った。それでも、なんともなかった。靴のせいだ。当然、そう思った。
「ヨルク」
「はい」
「この靴は駄目だ。返せ」
「三軒目でございますが」
「四軒目に頼め」
家令は、すぐには動かなかった。
「……旦那様」
「なんだ」
「四軒目は、断られました」
「断られた?」
「北の工房でございます。木型がないので作れない、と」
ヴァルターは靴下を脱ぐ手を止めた。
「木型」
「はい」
「木型など、作ればいいだろう。それが職人の仕事だ」
「三軒とも、作ったそうでございます。三つとも合わなかったと」
「では下手なだけだ」
ヨルクは何も言わなかった。言わないことで、何かを言っていた。ヴァルターはそう感じたが、それが何かは分からなかった。
「ヨルク」
「はい」
「北の工房というのは、どこだ」
「ノルデンでございます」
「ノルデン。ガイストの領か」
「はい」
「なぜそんなところに頼んだ」
「三軒に断られましたので」
「……そうか」
ヴァルターは、それで話を終えるつもりだった。終えなかったのは、ヨルクが動かなかったからだ。
「まだ何かあるのか」
「いえ」
「言え」
「……ございません」
家令は頭を下げて、部屋を出ていった。扉が閉まる音が、いつもより長く残った。
◇
二日後、医者を呼んだ。医者は足を見て、押して、しばらく黙った。押されると痛んだ。痛むのは、押されているところではない。少し離れた、土踏まずのあたりだった。
「ここも、お痛みですか」
「痛い。だが、そこは押していないだろう」
「押しておりません。庇っておられるところです」
「これは、いつからこうなっておられますか」
「二日前からだ」
「腫れは二日でしょう。骨の張り出しは、二日でこうはなりません」
「張り出し」
医者は、親指の付け根を指した。
「ここが、外へ出ております。左右とも。右のほうが強うございますな」
「そんなはずはない」
「三年か、四年かけて、少しずつ出たものかと」
ヴァルターは自分の足を見た。
見たことがなかった。三十二年、自分の足の形を、まともに見たことがなかった。
「治るのか」
「削るわけには参りませんので」
医者は道具をしまいながら、続けた。
「合う靴をお履きになることです。それだけで、止まります」
「合う靴を頼んでいる。三軒目だ」
「合わない靴を、三度お作りになったのですな」
「そうだ」
医者は、少し困った顔をした。
「靴屋のことは、私には分かりかねます」
「では、どうしろと」
「腕のいい靴屋を、お探しになることです」
「三軒とも、名のある店だぞ」
「そうだ」
「……失礼を申し上げますが」
医者は鞄の留め金を閉じた。
「名のある店は、名のある足を作ります。旦那様の足を作る店ではございません」
ヴァルターは、その言葉の意味が分からなかった。分からないまま、医者は帰った。
◇
その晩、セリーヌが部屋へ来た。手に紙を持っている。仲買から戻ってきた書付だった。
「ヴァルター様。北の工房も駄目でした」
「聞いた」
「春の式に、間に合いません」
「花嫁のほうは出来るのだろう」
「一対でないと、婚礼の靴になりません」
セリーヌは書付を卓に置いた。置いてから、指で端を揃えた。
「……あの、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「前の奥様は、どうやってお作りになっていたのですか」
ヴァルターは、答えなかった。答えなかったのは、隠したからではない。知らなかったからだ。
あの女は、いつ靴を作っていたのだろう。屋敷の北の、日の当たらない部屋にいたことは知っている。何をしていたのかは、知らない。訊いたことがない。
三月に一度、靴を預けろと言われた。預けると、二日で戻ってきた。戻ってくると、なぜか楽になっていた。それだけだ。それだけのことが、十年続いていた。
「ヴァルター様」
「知らん」
「え」
「知らんと言っている」
声が大きくなった。セリーヌが少し肩を引いた。
「……申し訳ありません」
「いや」
ヴァルターは、卓の書付を見た。書付の下のほうに、細かい字が並んでいる。読めない字ではない。ただ、意味が分からない。「右、親指の付け根に体重。外側が減る」——なぜ、そんなことを書き留める必要があるのか。
その字を、どこかで見た気がした。どこで見たのかは、思い出せなかった。
次は、北の話に戻ります。




