第11話 花嫁の靴
仲買の使いが来たのは、王都へ発つ三日前だった。北まわりの行商とは別の男で、若い。荷は持っていない。革の鞄を一つだけ提げていた。
「アルンド靴工房というのは、こちらで」
「はい」
「王都のクレーマー商会から参りました。仕事のお願いに」
わたくしは作業台の手を止めた。
「注文の仲立ちでございますか」
「はい。婚礼の一対です」
男は鞄から書付を出した。紙は上質だ。二つ折りにした跡が深い。何度も開いて、何度も畳んだ紙の折り目だった。三軒に見せて、三軒で断られた紙の折り目でもある。
婚礼の靴は二足で一対と数える。花嫁のものと、花婿のもの。同じ革、同じ縫い、同じ意匠で作る。王都では古い習わしだ。
「三軒に断られまして」
「三軒」
「王都の工房です。花婿さんのほうが、どうしても合わないと」
「合わない」
「ええ。三度作り直して、三度とも返品で。それで、うちが仲立ちを頼まれました」
男は書付を広げた。広げるとき、指先で紙の端を揃えた。商売人の手つきだ。この人は靴を知らない。書付を運ぶことだけが仕事なのだろう。二枚ある。一枚は花嫁のもの。足の寸法が、丁寧な字で並んでいる。若い女性の足だ。もう一枚を見た。
わたくしの字だった。紙の端が、少し茶色くなっている。三年ぶん、どこかの抽斗で寝ていた紙の色だ。字は、驚くほど自分のものに見えた。十年前の字も、三年前の字も、たぶん同じように見えるのだろう。字だけは減らない。
◇
十年、わたくしはこの書式で寸法を取ってきた。左の欄に足長、その下に指の付け根の幅。右の欄に甲の高さ。下段に癖を書く。「右、親指の付け根に体重。外側が減る」——そう書いたのは、わたくしの手だ。書付の下に、日付がある。三年前。
三年前に彫り直したときの、控えだった。
「これは、どちらから」
「レーベン伯爵家です。ご当主の寸法だと伺いました」
「そうですか」
「ご存じで」
「いえ」
男は、こちらの顔を見ていなかった。書付をどう畳むかで手間取っていた。
「この寸法で作れば、合うはずなんです。王都の工房もそう言っておりました。書付どおりに作ったのに合わない、と」
「合いませんでしょうね」
「え」
「三年前の寸法でございます」
男が顔を上げた。
「……古いと、駄目なんですか」
「足は変わります」
「三年で」
「立つお仕事なら、一年で変わります」
わたくしは書付を返した。
「お受けできません」
「そこを、なんとか」
「なんとかできる話ではございません」
「では、寸法を取り直せば」
「取り直しても同じです」
男は困った顔をした。困ったときに眉の外側だけが下がる人だった。
「あの、なぜでしょう。取り直せば、今の足になりますよね」
「なります」
「では」
「取り直した寸法で彫った木型は、その職人の型になります」
「……はあ」
「同じ数字を渡しても、彫る順が違えば別の形が出ます。合うかどうかは、彫った人にしか分かりません」
わたくしは書付の端を指した。
「この控えを書いた者は、彫る順を知っております。ただ、その者は、もうその仕事を引き受けておりません」
男は、しばらく黙っていた。
「……その方は、どこに」
「存じません」
嘘は言っていない。わたくしがどこにいるかは、この方にとって「存じません」で構わない。
「では、花嫁のほうだけでも」
「一対と伺いました」
「はい」
「片方だけ作れば、対になりません。婚礼の靴で対にならないのは、縁起が悪うございます」
男は鞄を閉じかけて、また開けた。
「あの、正直に申し上げますと、期限がありまして」
「式でございますか」
「はい。春です」
「春」
「もう二月しかないんです。三軒断られて、四軒目がこちらで」
わたくしは糸車の前に座った。
「四軒目まで来て、まだ木型を作っていらっしゃらないのですか」
「作ってはいるそうです。三つ。全部合わないと」
「三つ」
「はい。ですから、王都では『あの家の当主は足が変わる病だ』などと」
わたくしは、そこで少し手を止めた。足が変わる病、という言い方は初めて聞いた。うまい言い方だと思った。作れない理由を、作る側から履く側へ移せる。病ではない。
三年、立ち仕事を続けて、合わない靴を履き続ければ、足はそうなる。親指の付け根が外へ張り出す。張り出せば、寸法が合わなくなる。合わない靴を履けば、また張り出す。止める方法はあった。三年前まで、わたくしがそれをやっていた。
三月に一度、靴を預かる。中敷きを剥がして、当たりを見る。張り出しはじめたところに、内から革を当てて逃がす。逃がせば、そこは止まる。止めれば、木型は三年保つ。これを説明したことはない。訊かれなかったからだ。
訊かれなくても続けていれば、いつか気づかれると思っていた。十年経っても気づかれなかったので、たぶん、そういう種類の仕事なのだろう。
◇
「お引き受けできません」
「木型がないから、でしょうか」
「はい」
男は書付を鞄にしまった。
「木型がございませんので、お作りできません」
その一文だけを、はっきり申し上げた。嘘ではない。あの型は、この店の奥の棚にある。ただ、この方に渡すことはできない。渡せば、彫れる者のいない型が王都をさまようだけだ。男は帽子を取って、頭を下げた。
「……お時間をいただきました」
「お気をつけて」
「あの、最後に一つだけ」
「はい」
「もし、この寸法を書いた方をご存じでしたら、お伝えいただけませんか」
わたくしは男を見た。
「なんとお伝えすれば」
「困っている、と」
わたくしは頷いた。
「承りました」
男は扉のところで、もう一度振り返った。
「あの、こちらは、どなたの靴を作っておられるんですか」
わたくしは土間の籠を指した。番号を挟んだ紙が、四十三枚ささっている。
「この街の方のです」
「……全部、直しですか」
「はい」
「王都なら、捨てて買う値段ですよ、それ」
「そうですね」
男は籠をしばらく見ていた。それから、何も言わずに出ていった。
◇
男が坂を上っていったあと、ノラが奥から出てきた。
「奥様」
「はい」
「今の、あれですよね」
「そうですね」
「奥様の字だったんですよね。見えました」
「見えましたか」
「見えました」
ノラは土間に立ったまま、握った手を開いたり閉じたりしていた。この子は怒ると手を握る。困ると開く。両方やるときは、どちらか決めかねている。
「なんで言わなかったんですか。わたしが書いたって」
「言う理由がありません」
「困ってるって、伝えてくれって言われましたよ」
「伝えました。今、あなたに」
ノラは、口を開けたまま止まった。
「……それ、伝えたことになるんですか」
「なりません」
「奥様」
「はい」
「性格、悪いです」
「よく言われます」
◇
わたくしは糸を巻いた。巻きながら、奥の棚のほうを一度だけ見た。布はかかったままだ。あの中に、今日の書付と同じ数字の型がある。三年前の数字だ。
あれを渡せば、王都の誰かが靴を作るだろう。作った靴は合わない。合わなければ、また削る。削れば型が減る。減った型は、彫り直せる者がいない。だから、渡すことが親切になる場面は、一度もない。
窓の外は、もう暗い。二月後の春に、王都で式がある。花嫁の靴は、たぶん出来上がるのだろう。花婿の靴は、どうなるのか。それは、わたくしの知るところではない。
春の式まで、二月あるそうです。二月では、足は変わりません。




