第10話 歩かない理由
靴は、二日後の朝に仕上がった。三日かかるはずだった。一日縮めたのは、油の入れ方を変えたからだ。三度に分けるところを、二度にした。褒められた仕事ではない。ただ、この方の仮の中敷きは、もう潰れきっていた。
木型から抜いて、縁を整えて、油を入れる。油は一度に入れない。二度に分けて、間を空ける。急いで入れた革は、あとで固くなる。
抜くときが、いちばん緊張する。木型に吊るした革は、抜いた瞬間にわずかに縮む。縮み方は革ごとに違う。読み違えれば、それまでの手間が全部消える。左を先に抜いた。縮みは、指の幅の四分の一ほど。読みどおりだった。
左右を並べて、作業台に置いた。見た目には、左のほうが少しだけ厚い。言われなければ気づかない程度だ。底の段は、外からは分からないように内側で吸わせてある。
「奥様。これ、片方だけ高いのに、変に見えないですね」
「そう作りました」
「変に見えると、まずいんですか」
「ご本人が、履かなくなります」
ノラは、靴を横から覗き込んだ。
「……人に見られたくないってことですか」
「そういう方が多うございます」
「その人も?」
「存じません」
◇
アーベル様は、昼前に来た。外套の雪を落として、上がり框に座る。座る前に、一度こちらを見た。
「できたのか」
「はい」
わたくしは靴を差し出した。その方は受け取って、しばらく見ていた。それから、履いた。紐を締める。締め方が、前より丁寧だった。立った。土間を、端から端まで歩いた。五歩。戻ってきて、また五歩。三度目に、杖を上がり框に立てかけた。
四度目は、杖なしで歩いた。そのまま、扉を開けて外へ出た。わたくしとノラは、土間から見ていた。その方は店の前を、坂に沿って上へ十歩ほど行って、それから下りてきた。下りは上りより難しい。難しいほうを、二度往復した。
戻ってきて、土間に入って、それから、何も言わずに壁に手をついた。
「アーベル様」
「……いや」
「お痛みが」
「痛くない」
その方は、そこで初めてこちらを見た。
「痛くないんだ」
その方は壁から手を離して、自分の左足を見下ろした。
「二十歩あるいて、痛くない。……十年ぶりだ」
「二十歩では、まだ分かりません」
「分からんのか」
「痛みは、たいてい半刻あとに来ます。今日は無理をなさらないでください」
「無理をするなと言われたのも、十年ぶりだ」
その方は、そこで妙な顔をした。何かを言いかけて、やめた顔だった。
「……皆、無理をするなとは言わなかった」
「なんと」
「無理をしても構わない、と言われた。気を遣って、そう言うんだ」
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。ノラが気を利かせて、奥へ引っ込んだ。引っ込むときに、わざと大きな音を立てて戸を閉めた。この子は気の利かせ方が下手だ。アーベル様は上がり框に座って、靴を見ていた。
「アルンド」
「はい」
「前に、訊いたな。十年、屋敷を出なかった理由を」
「お答えいただかなくて結構だと申し上げました」
「言う」
その方は、膝の上で手を組んだ。
「見られるのが、嫌だっただけだ」
外で、屋根の雪が落ちた。この街の家は、屋根の勾配が急だ。雪が積もり切る前に落ちる。落ちる音は、一日に何十回もする。誰も気にしない。気にしないものが、この土間ではやけに大きく聞こえた。
「戦のあと、二年ほどは出ていた。役所にも行った。皆、親切だった。……親切なんだ。扉を押さえてくれる。椅子を出してくれる。話をゆっくりにしてくれる」
「はい」
「三年目に、気づいた。誰も俺の話を聞いていない。足の話しか、していない」
わたくしは糸車の前に座った。座って、手は動かさなかった。
「北の戦で、俺の隊は八十人いた。生きて帰ったのが五十一人だ。そのうち、二十二人が足か腕をやられている」
「二十二人」
「その連中の顔を見ていると、屋敷にいるほうが早いと思うようになった。俺が出ていくと、皆が俺の足を見る。皆が自分の足を思い出す」
その方は、そこで言葉を切った。
「……そういう理屈をつけた。本当は、ただ、嫌だっただけだ」
「はい」
「否定しないんだな」
「否定する理由がございません」
その方は、少し笑った。笑うのを見たのは初めてだった。笑うと、目尻に皺が寄る。日に焼けた皺だ。屋敷にこもっていた十年でついたものではない。その前の、外にいたころのものが、そのまま残っている。
人の顔は、足ほど正直ではない。それでも、残るものは残る。
◇
「アルンド。王都へ行く用というのは、その二十二人のことだ」
「補償でございますか」
その方の顔が、動いた。
「……なぜ分かった」
「戦傷で職を失った方への手当は、王都の軍務府が扱っております。婚家におりましたころ、そういう書類を見たことがございます」
「そうか」
その方は膝の上の手を、一度ほどいて、また組んだ。
「三年前に、二十二人ぶんの申請を出した。全部却下された」
「理由は」
「『歩行可能な者は対象外』だ」
わたくしは糸車から手を離した。
「歩ければ、対象外」
「そう書いてあった。杖でも、引きずってでも、歩けば歩行可能だ。……それで、うちの領で払っている。だが、領の金には限りがある。去年から半分に減らした」
「再申請はなさいましたか」
「二度した。同じ理由で戻ってきた」
「三度目を」
「そのつもりだ。今度は、俺が行く」
その方は、自分の足元を見た。
「代理に行かせても、書類は同じだ。同じ書類が三度戻ってくるだけだ」
「ご自分が行かれると、何が変わりますか」
「分からん」
正直な人だ、と思った。
「ただ、俺が歩いて役所に入れば、少なくとも一度は、俺の話をする」
◇
わたくしは立ち上がって、棚から新しい木型の材を出した。材はもう一組ある。同じ楢の、同じ丸太から挽いたものだ。同じ丸太を使うのは、同じように狂うからだ。狂い方が揃っていれば、二足の履き心地も揃う。
王都用は、底を薄くする。縁を低くする。踵は硬く、爪先は少し反らせる。石畳は雪より滑る。滑るところでは、地面を掴む作りにしなければならない。同じ足に、二通りの床を作ることになる。
雪の道は沈む。沈むぶん、踵が先に着く。石畳は沈まない。沈まないぶん、衝撃が膝まで上がる。同じ人が同じ歩き方をしても、地面が違えば、痛むところが変わる。王都へ行くなら、王都の床が要る。
「アーベル様」
「なんだ」
「今の靴は、雪道用でございます」
「そうなのか」
「底が厚く、縁が高うございます。王都は石畳です。石畳で厚い底は、跳ねます」
「……もう一足要る、と」
「はい」
「間に合うのか」
「木型がございますので、間に合います」
その方は、木型棚のほうを見た。名札のない型が一つ、置いてある。
「……あれか」
「はい。あなた様のものです」
その方は、しばらくそれを見ていた。
「アルンド。俺は、あんたに幾ら払えばいい」
「靴の代金だけで結構です」
「それでは足りん」
「足ります」
「足りん」
その方は立ち上がった。立ち上がるときに、もう手をつかなかった。
「王都へ、一緒に来てくれないか。……足の話をされたら、俺には返せん」
わたくしは材を作業台に置いた。
「承知いたしました」
石畳用の材に、鉛筆で線を引いた。踵の位置。指の付け根の傾き。左だけ、下に一本足す。同じ数字を、二度書くことになる。二度書いても飽きない。むしろ、二度目のほうが手が正確になる。
返事が早すぎたのだろう。その方は、少し驚いた顔をした。早いのには理由がある。わたくしにも、王都に用ができたところだった。ただ、それはまだ申し上げていない。
王都には、返していない手紙が一通ございます。




