お礼①
深夜一時。
家の中は静まり返っていた。
波は客室のベッドで、久しぶりに安心したような寝息を立てている。
凪も隣の部屋へ入ったはずだった。
コンコン。
静かな廊下に、小さなノックが響く。
「水平君……ちょっといいかな。」
「あぁ。」
彗が扉を開けると、部屋着に着替えた凪が申し訳なさそうに立っていた。
「こんな夜遅くに、ごめんね。」
軽く頭を下げる。
彗は首を横に振った。
「眠れないの?」
凪は少し驚く。
どうして分かったのだろう。
彗はじっと凪の目を見つめていた。
「……少しね。」
苦笑いを浮かべる。
「水平君って、すごいね。」
「何が?」
本当に分からないという顔で聞き返す。
「だって……。」
凪は視線を落とした。
「私の家ね。」
「もうガス、止まってるんだ。」
その言葉は静かだった。
「水道も……あと少しで止められちゃう。」
「家賃もギリギリで。」
「お母さんの入院費もあるし……。」
一つ口にすると、堰を切ったように言葉が溢れていく。
「波には『大丈夫』って言ってるけど、本当は全然大丈夫じゃない。」
「毎日、お金のことばっかり考えて。」
「この先どうなるんだろうって。」
「怖くて眠れないの。」
凪は笑おうとした。
けれど、その笑顔はすぐに崩れた。
「なのに、水平君は……。」
「こんな大きな家で、一人で暮らして。」
「料理もできて。」
「何でも一人でできちゃう。」
「……すごいよ。」
彗はしばらく黙っていた。
やがて静かに口を開く。
「すごくないよ。」
「できるようになっただけ。」
それだけ言うと、窓の外へ目を向ける。
「一人でいる時間が長いと。」
「自然と覚えるから。」
その横顔は、どこか寂しげだった。
凪はその表情を見て気付く。
この人は、恵まれているわけじゃない。
恵まれなくても生きていけるように、自分を変えるしかなかっただけなのだ。
凪は小さく息を吸い、彗を見つめた。
「だから……水平君。」
「ちゃんと、お礼をしないといけないと思って。」
「今日、ご飯を作ってくれて。」
「泊めてくれて。」
「波にも優しくしてくれて。」
「こんなに誰かに助けてもらったの、初めてだから……。」
声が少し震えていた。
彗は静かに凪を見つめる。
「北宮さん──。」
そう呼びかけて、一瞬だけ言葉を止める。
「……いや、凪。」
初めて名前で呼ばれた。
凪は目を大きく見開く。
「今は、自分が幸せになることを考えて。」
「お礼は、そのあとでいい。」
穏やかな声だった。
「でも……。」
「私、何も返せなくて……。」
「返さなくていい。」
彗は首を横に振る。
「誰かを助けた見返りなんて、最初から求めてないから。」
「それより。」
「凪が笑えるようになる方が大事。」
その一言で、凪の胸に張りつめていたものが切れた。
涙が一筋、頬を伝う。
「……なんで。」
「なんで、そこまで優しくできるの?」
彗は少しだけ考え、それから困ったように笑う。
「優しくしてるつもりはないよ。」
「困っている人がいたから。」
「手を差し伸べただけ。」
その言葉は飾り気がなく、だからこそ凪の心に深く刺さった。
この人は、自分自身がどれほど傷ついていても、そのことを少しも特別だと思っていない。
だからこそ、人を助けることもまた、ごく当たり前のこととして受け止めているのだ。
凪は涙を拭い、小さく頷いた。
「……ありがとう。」
今度の「ありがとう」は、無理に返そうとするための言葉ではなかった。
心から自然にこぼれた言葉だった。




