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水平線の向こうの彗星  作者: はまちゃん


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8/26

お礼①

深夜一時。


家の中は静まり返っていた。


波は客室のベッドで、久しぶりに安心したような寝息を立てている。


凪も隣の部屋へ入ったはずだった。


コンコン。


静かな廊下に、小さなノックが響く。


「水平君……ちょっといいかな。」


「あぁ。」


彗が扉を開けると、部屋着に着替えた凪が申し訳なさそうに立っていた。


「こんな夜遅くに、ごめんね。」


軽く頭を下げる。


彗は首を横に振った。


「眠れないの?」


凪は少し驚く。


どうして分かったのだろう。


彗はじっと凪の目を見つめていた。


「……少しね。」


苦笑いを浮かべる。


「水平君って、すごいね。」


「何が?」


本当に分からないという顔で聞き返す。


「だって……。」


凪は視線を落とした。


「私の家ね。」


「もうガス、止まってるんだ。」


その言葉は静かだった。


「水道も……あと少しで止められちゃう。」


「家賃もギリギリで。」


「お母さんの入院費もあるし……。」


一つ口にすると、堰を切ったように言葉が溢れていく。


「波には『大丈夫』って言ってるけど、本当は全然大丈夫じゃない。」


「毎日、お金のことばっかり考えて。」


「この先どうなるんだろうって。」


「怖くて眠れないの。」


凪は笑おうとした。


けれど、その笑顔はすぐに崩れた。


「なのに、水平君は……。」


「こんな大きな家で、一人で暮らして。」


「料理もできて。」


「何でも一人でできちゃう。」


「……すごいよ。」


彗はしばらく黙っていた。


やがて静かに口を開く。


「すごくないよ。」


「できるようになっただけ。」


それだけ言うと、窓の外へ目を向ける。


「一人でいる時間が長いと。」


「自然と覚えるから。」


その横顔は、どこか寂しげだった。


凪はその表情を見て気付く。


この人は、恵まれているわけじゃない。


恵まれなくても生きていけるように、自分を変えるしかなかっただけなのだ。


凪は小さく息を吸い、彗を見つめた。


「だから……水平君。」


「ちゃんと、お礼をしないといけないと思って。」


「今日、ご飯を作ってくれて。」


「泊めてくれて。」


「波にも優しくしてくれて。」


「こんなに誰かに助けてもらったの、初めてだから……。」


声が少し震えていた。


彗は静かに凪を見つめる。


「北宮さん──。」


そう呼びかけて、一瞬だけ言葉を止める。


「……いや、凪。」


初めて名前で呼ばれた。


凪は目を大きく見開く。


「今は、自分が幸せになることを考えて。」


「お礼は、そのあとでいい。」


穏やかな声だった。


「でも……。」


「私、何も返せなくて……。」


「返さなくていい。」


彗は首を横に振る。


「誰かを助けた見返りなんて、最初から求めてないから。」


「それより。」


「凪が笑えるようになる方が大事。」


その一言で、凪の胸に張りつめていたものが切れた。


涙が一筋、頬を伝う。


「……なんで。」


「なんで、そこまで優しくできるの?」


彗は少しだけ考え、それから困ったように笑う。


「優しくしてるつもりはないよ。」


「困っている人がいたから。」


「手を差し伸べただけ。」


その言葉は飾り気がなく、だからこそ凪の心に深く刺さった。


この人は、自分自身がどれほど傷ついていても、そのことを少しも特別だと思っていない。


だからこそ、人を助けることもまた、ごく当たり前のこととして受け止めているのだ。


凪は涙を拭い、小さく頷いた。


「……ありがとう。」


今度の「ありがとう」は、無理に返そうとするための言葉ではなかった。


心から自然にこぼれた言葉だった。

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