優しすぎる
北宮家の玄関を開けると、勢いよく足音が近づいてきた。
「おかえり、お姉ちゃん!」
制服姿の少女が凪に抱きつく。
話を聞くと、中学一年生。
四つ下の妹、北宮波だった。
しかし、凪の後ろに立つ彗を見るなり、その表情が曇る。
「……お姉ちゃん。」
「その人、誰……?」
波は凪の服の裾をぎゅっと掴み、彗をじっと見つめる。
その目には、はっきりとした警戒心が宿っていた。
凪は困ったように笑う。
「あ、この人はね。私のクラスメートの……」
「水平彗。」
凪の言葉を引き継ぐように、彗は軽く頭を下げた。
「よろしく。」
それでも波は返事をしない。
凪の後ろへ半歩隠れたまま、彗から視線を外そうとしなかった。
――やっぱり。
当然だ、と彗は思う。
知らない男を簡単に信用しない。
それだけ姉を大切にしているということだから。
彗は無理に距離を縮めようとはせず、しゃがんで波と目線を合わせた。
「波ちゃん。」
一瞬、「北宮さん」と呼びかけかけて言い直す。
「ご飯、食べに来ない?」
波はきょとんと目を丸くした。
「……ご飯?」
「うん。」
「今日は一人で食べる予定だったから。」
「三人で食べた方がおいしい。」
それだけ言うと、彗は無理に返事を待たず、静かに立ち上がった。
波は凪を見上げる。
「……お姉ちゃん。」
小さな声で、不安そうに問いかける。
凪は優しく微笑み、波の頭を撫でた。
「大丈夫。」
「この人は、怖い人じゃないから。」
その言葉を聞いても、波はまだ警戒を解かなかった。
けれど、彗を見る目は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
彗の家に着いた瞬間。
「……え。」
凪の足が止まる。
その隣で、波もぽかんと口を開けていた。
門の向こうに建つのは、まるで屋敷と呼ぶべき大きな家。
手入れの行き届いた庭。
重厚な玄関扉。
高校生が一人で暮らしているとは、とても思えない。
「……ここ、本当に水平君の家?」
凪が恐る恐る尋ねる。
「うん。」
彗はそれだけ答え、玄関の鍵を開けた。
家の中も広く、静まり返っている。
生活感はある。
けれど、人の気配だけが不自然なほど薄かった。
「入って。」
二人は遠慮がちに靴を脱ぐ。
「少し待ってて。」
そう言い残すと、彗は台所へ向かった。
慣れた手つきでエプロンを身につけ、冷蔵庫を開ける。
その様子を見ていた波が、小さく呟く。
「……料理するんだ。」
一方、凪の視線はリビングの本棚に向いていた。
壁一面を埋め尽くすほどの本。
文学、歴史、医学、心理学、哲学──。
どれも分厚く、使い込まれた跡がある。
「これ……全部、水平君が読んだの?」
「うん。」
包丁を動かしながら、彗は短く答えた。
「すごい……。」
思わず漏れた声だった。
しばらく眺めていた凪は、エプロン姿の彗に目を向ける。
「私も手伝うよ。」
そう言ってキッチンへ向かおうとする。
しかし。
「大丈夫。」
彗は振り返りもせず答えた。
「でも、一人じゃ大変でしょ?」
「大丈夫だから。」
今度は少しだけ語気が強い。
凪は立ち止まる。
「……どうして?」
彗は包丁を置き、小さく息をついた。
「北宮さんは、いつも誰かのために動いてる。」
「今日は座って待ってて。」
「人に作ってもらう日があってもいい。」
その言葉に、凪は何も返せなかった。
誰かに「休んでいい」と言われたのは、いつ以来だっただろう。
「……じゃあ、お言葉に甘えるね。」
そう呟くと、凪は静かにソファへ腰を下ろした。
その隣で波は、小さな声で姉に囁く。
「お姉ちゃん。」
「水平さんって……優しい人なんだね。」
凪は台所で料理をする彗の背中を見つめ、そっと微笑んだ。
「うん。」
「優しすぎる人、なんだよ。」




