夏祭り
それから数日後。
夏の空気はさらに濃くなり、蝉の声だけがやけに大きく感じられるようになっていた。
「ねえ、お兄さん。」
波がリビングで浴衣のチラシを広げている。
「夏祭り、行こう!」
「岡崎祭りだって!」
凪もその隣で小さく頷いた。
「たまには、こういうのもいいかなって。」
彗は手に持っていたコップを置く。
「人、多いだろ。」
「それはそうだけど……。」
凪は少しだけ笑う。
「波がどうしてもって。」
波は即座に頷いた。
「だってお祭りだよ!?」
「行かない理由ないじゃん!」
彗はしばらく黙っていた。
人混み。
騒音。
あまり得意ではないものばかりが浮かぶ。
それでも。
二人の顔を見ていると、断る理由も薄れていく。
「……分かった。」
小さくそう言うと、波が飛び跳ねた。
「やったー!」
凪もほっとしたように息を吐く。
「ありがとう、水平君。」
その言葉に、彗は少しだけ視線を逸らした。
「別に。」
「暇なだけ。」
そう言いながらも、どこか完全には拒否していない自分に気付く。
その夜、波は浴衣を広げてはしゃぎ、凪は少し緊張したように準備を進めていた。
彗だけは、静かにその様子を眺めている。
――祭り。
かつては、遠い世界の出来事だったもの。
それが今は、自分の予定の中に入っている。
その事実が、少しだけ不思議だった。
夜の岡崎祭りは、人の波で埋め尽くされていた。
提灯の灯りが連なり、屋台の音と笑い声が混ざり合う。
波は目を輝かせながら、あちこちを見回していた。
「すごい……!」
凪も少しだけ緊張をほどきながら、隣を歩いている。
彗は二人の少し後ろを歩き、周囲の人の流れを確認していた。
その時だった。
波の足がぴたりと止まる。
視線の先には、赤く艶やかな飴りんごが並ぶ屋台。
照明に照らされて、まるで宝石のように光っている。
「……。」
何も言わない。
けれど、目が離れていない。
彗はその視線に気づく。
「飴りんご、欲しいの?」
波は一瞬びくっとして、それからこくこくと頷いた。
「うん……。」
凪が苦笑する。
「また分かりやすいね。」
波は少し頬を膨らませる。
「だって、あれ絶対おいしいもん……。」
彗は短く息を吐いた。
「分かった。」
そのまま屋台へ歩いていく。
「え、いいの?」
凪が慌ててついてくる。
「祭りだし。」
それだけ言って、彗は迷いなく一つの飴りんごを指さした。
店主から受け取り、少し重そうにしたそれを波へ差し出す。
「はい。」
波の目が一気に輝く。
「ありがとう、お兄さん!」
両手で大事そうに受け取ると、嬉しそうに見つめた。
「すごい……きれい……。」
凪はその様子を見て、小さく笑う。
「ほんとに好きなんだね。」
波は頷きながら、少しだけかじる。
「ん……おいしい!」
その一言に、彗はわずかに目を細めた。
「なら、よかった。」
そう呟く声は、祭りの喧騒に紛れて誰にもはっきりとは届かなかった。
けれど、その場の空気だけは確かに少しだけ柔らかくなっていた。




