不思議な太陽
気づけば、夏休みに入っていた。
学校のチャイムが聞こえない日々。
朝の空気は少しだけ軽くて、窓から差し込む光も強い。
あれだけ騒がしかった日常が、嘘みたいに静かだった。
彗はいつものように早く起き、朝食を作っていた。
その生活に、もう違和感はない。
むしろ、少しずつ「当たり前」になり始めている。
リビングでは波がソファに寝転び、扇風機の前で涼んでいる。
「お兄さーん、今日暑いー。」
「夏だからな。」
彗は淡々と返す。
そのやり取りに、凪はキッチンの片付けをしながら小さく笑った。
あの頃のような、張り詰めた空気はもうない。
それでも完全に軽くなったわけではない。
ふとした瞬間に、誰も言葉を発さない時間がある。
夜の静けさの中で、それぞれが何かを思い出しているような沈黙。
それでも、以前と違うのは。
その沈黙が、怖くないということだった。
「お兄さん。」
波が転がりながら彗を見る。
「今日、どっか行こうよ。」
「暑いから嫌だ。」
「えー!」
凪がくすっと笑う。
「じゃあ夕方にしよっか。」
そんな何気ない会話が、家の中に自然に溶けていく。
彗はその光景を横目に見ながら、ふと思う。
――こういう日常は、初めてかもしれない。
そして同時に、どこか落ち着かない気持ちもあった。
何かを失ったあとにできた空白が、まだ完全には埋まっていない。
それでも今は、ただ。
この静けさが壊れないことだけを、どこかで願っていた。
夕方。
三人は海辺を歩いていた。
夏の終わりに近い風は、まだ少しだけ熱を含んでいる。
波が砂浜を走るように歩きながら、ふと足を止めた。
「ねえ、見て!」
指差す先。
凪と彗も同時に視線を上げる。
水平線に、夕日が半分沈みかけていた。
空と海の境目が曖昧になり、世界全体が橙色に染まっている。
――そのはずだった。
だが、その光の中に。
一瞬だけ、違う色が混じった。
緑。
淡く、しかし確かに揺らめく光。
波が息を呑む。
「……なに、あれ。」
凪も言葉を失っていた。
夕日の縁が、ほんの一瞬だけ翡翠のように光る。
まるで現実の層が一枚だけずれたような、不自然な輝き。
彗はその光を見つめたまま、動かなかった。
胸の奥が、静かにざわつく。
――知っている気がする。
理由も、意味も分からないのに。
どこかで見たことがあるような、嫌な既視感。
風が一度強く吹き抜ける。
次の瞬間には、緑の光は何事もなかったように消えていた。
ただの夕日が、いつものように水平線へ沈んでいく。
波は目を瞬かせる。
「……今の、何だったの?」
凪は不安そうに彗を見る。
彗はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと視線を海へ戻した。
「……分からない。」
短くそう答える。
けれど、その声はどこか確信を欠いていた。
海は何も答えないまま、ただ静かに波打っている。
そして彗は気付いてしまう。
――この穏やかな日常のどこかに。
まだ、終わっていないものがあるということに。




