父の背中
その後の日々は、驚くほど速く過ぎていった。
海は静かに息を引き取った。
最期は穏やかだったと、医師は言った。
けれど凪と波にとって、その言葉が救いになることはなかった。
葬儀の準備は、珍しく帰省してきた彗の父が引き受けた。
黒い喪服に身を包み、淡々と手続きを進めるその姿は、冷たさではなく慣れに近かった。
「……ありがとう。」
彗がそう言いかけると、父は書類から顔も上げずに静かに遮った。
「今はいい。」
「お礼は、全部終わってからにしなさい。」
それだけ言うと、また手続きを進める。
その言葉は突き放すものではなかった。
むしろ、感情をどこかに預けているような、静かな優しさだった。
彗はそれ以上何も言えず、ただその背中を見ていた。
葬儀の日。
凪と波は泣き続け、参列者の波に支えられるように立っていた。
その隣で彗は、ほとんど表情を変えずにいた。
悲しみがないわけではない。
ただ、それをどう扱えばいいのか分からなかった。
焼香の煙がゆっくりと立ちのぼる。
その向こうに、もう動かない海の姿がある。
凪が小さく呟く。
「お母さん……。」
波は声にならない泣き声を上げていた。
彗はその二人を見ながら、ただ拳を握る。
何かを言おうとしても、言葉はどこにも出てこない。
ただ一つだけ分かっていた。
この家は、もう以前の形には戻らないということだけだった。
葬儀が終わり、納骨や墓の手続きまで、すべてが淡々と片付けられていった。
本来なら親戚が分担するはずのものを、彗の父は一人で処理していた。
無駄な感情も、言い訳も挟まずに。
その背中を見ながら、彗は思う。
――この人は、優しすぎる。
不器用なだけかもしれない。
それでも、確かに誰よりも現実を処理していた。
全てが一段落した日の夕方。
父は凪と波の方へ向き直った。
「凪さん、波さん。」
一瞬言い直し、少しだけ表情を緩める。
「いや……凪と波。」
「うちに来ないか。」
二人は息を呑む。
父は続けた。
「金の心配はいらない。」
「住む場所も、生活もどうにかなる。」
そして少しだけ視線を彗へ向けた。
「ただ……。」
「このバカ息子と、仲良くしてやってくれ。」
その言い方は冗談のようでいて、どこか本気だった。
彗は思わず目を伏せる。
「……バカって何。」
小さく呟くが、誰もそれには答えない。
凪は戸惑いながらも、波の手を握る。
波は彗をじっと見ていた。
「お兄さん……一緒にいられるの?」
その問いに、彗はすぐには答えられなかった。
けれど父は、静かにそれ以上の言葉を重ねない。
ただ、決定事項のようにそこに立っている。
凪はしばらく迷い、やがて小さく頷いた。
「……お願いします。」
波も続いて頷く。
「うん。」
その瞬間。
彗の日常は、静かに形を変え始めていた。




