第7話 目覚めと、ほどけていく距離
――あたたかい。
最初に感じたのは、その温度だった。
冷えきっていたはずの身体の奥に、じんわりとしたぬくもりが戻っている。
どこかで、水の音がしている。
やわらかく、途切れずに続くその音に導かれるように、意識がゆっくりと浮かび上がった。
「……ん……」
かすかな声とともに、まぶたを開ける。
木の天井。見慣れた梁の形。
少し遅れて、ここが水守の社の中だと気づいた。
「……戻って、きた……」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
その呟きに、すぐに反応が返ってくる。
「やっと目が覚めたか」
低く、落ち着いた声。
視線を横に向けると、壁にもたれるように座る迅の姿があった。
腕を組んだまま、じっとこちらを見ている。
その視線は厳しいが、どこか張り詰めていたものが緩んだようにも見えた。
「……迅さん。あの、私……」
起き上がろうとした瞬間、すっと手が伸びる。
肩に触れ、やわらかく押し戻された。
「まだ動くな。見た目より消耗してる」
静かに言いながらも、その手つきは迷いがない。
無理をさせないことを前提にしている動きだった。
「でも、もう大丈夫です。少し休めば――」
「その“少し”で倒れたばかりだろ」
被せるように言われて、言葉が止まる。
強く責めているわけではない。
けれど、逃がさない声音だった。
視線が、まっすぐに向けられる。
「自分の状態、分かってるか?」
「……冷えが、少し残っているくらいだと……」
「“少し”じゃない」
間髪入れずに否定される。
そして、ふっと息を吐いた。
「触れた瞬間に分かった。あれは内側からやられてる冷えだ。放っておくと長引く」
そう言われて、改めて自分の指先を見る。
確かに、感覚が鈍い。
力を入れているつもりでも、どこか遅れて伝わるような違和感がある。
「……すみません。無理をしたつもりは、なかったんですが」
正直に言うと、迅は一瞬だけ目を細めた。
「分かっててやったのか、それとも無自覚かで話は変わる」
「……分かっていました」
少し迷ってから、そう答える。
「危ないかもしれないとは思いました。でも、あのままでは白露が……」
そこまで言って、言葉を切る。
迅は黙って聞いていた。
途中で遮ることもなく、ただ見ている。
その沈黙が、逆に続きを促しているようだった。
「……それに、この場所も」
視線を、少しだけ窓の外へ向ける。
「やっと、戻り始めているのに。止めたくなかったんです」
言い終えると、部屋に静けさが落ちた。
すぐには返事が来ない。
否定されるかもしれない、と思った。
けれど。
「……そうか」
返ってきたのは、短い一言だった。
予想よりもずっと静かな、受け止めるような声。
顔を上げると、迅はわずかに視線を逸らしていた。
「なら、やったこと自体を否定はしない」
「え……」
思わず声が漏れる。
怒られると思っていた。
止められると思っていた。
けれど違った。
「ただし」
そこで、視線が戻る。
「同じやり方は認めない」
はっきりと言い切る。
その目は、本気だった。
「次に同じことをしたら、その場で止める。力づくでもな」
冗談ではない。
本当にやるつもりだと分かる声音だった。
小夜は少しだけ目を伏せる。
「……はい。分かりました」
素直に頷いた。
不思議と反発はなかった。
むしろ、少しだけ安心した自分がいることに気づく。
そのとき、ふわりと空気が揺れた。
『ねえ、小夜。さすがに無茶しすぎじゃない?』
軽い調子の声が、すぐ近くに落ちる。
水月だった。
「……水月。心配、かけました」
『“かけました”じゃなくて、“かけてる最中”ね』
ため息混じりに言いながらも、どこか安心しているのが分かる声。
『倒れたまま起きなかったらどうするつもりだったの? ぼく、けっこう困るんだけど』
「……戻りたいと思ったので、大丈夫だと思っていました」
『思ってるだけじゃどうにもならないこともあるでしょ』
少しだけ強く言う。
それでも、怒っているというよりは――引き留めている感じだった。
「でも、戻ってきました」
小夜が静かに言うと、水月は一瞬言葉に詰まったようだった。
それから、小さく息を吐く。
『……そういうところ、ほんとずるいよね』
「え?」
『結果出すから、何も言えなくなる』
くすっと笑う気配。
完全に呆れているわけではない。
むしろ、少し誇らしげですらあった。
そのやり取りを聞いていた迅が、ぼそりと口を挟む。
「褒めて甘やかすな。つけあがる」
『甘やかしてるつもりはないけど?』
即座に返す水月。
『むしろ止めてる側だよ。そっちは力で止めるだけでしょ』
「確実だからな」
淡々と返す迅。
空気が少しだけ張る。
けれど、どこかぶつかりきらない柔らかさがあった。
小夜はそのやり取りを見て、思わず小さく笑ってしまう。
「……仲がいいんですね」
「どこがだ」
『どこがだろうね』
ほぼ同時に返ってくる。
息の合い方に、今度ははっきりと笑ってしまった。
そのとき、ふと視線の端に白い影が映る。
入口の近くに、白露が座っていた。
じっとこちらを見ている。
「……白露」
呼ぶと、ゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
迷いのない足取りだった。
すぐそばまで来ると、そっと手に鼻先を寄せる。
ひんやりとした感触。
けれど、そこにあるのは警戒ではなかった。
「……心配してくれていたんですか?」
問いかけるように言うと、白露は離れず、そのままじっとしている。
言葉はない。
それでも、はっきりと伝わってくるものがあった。
『完全に認められてるね』
水月が楽しそうに言う。
『最初の距離感が嘘みたい』
「……そうですね」
小夜はそっと白露の頭に手を伸ばす。
少しだけ迷ってから、やさしく触れた。
白露は逃げない。
そのまま、静かに受け入れている。
その温もりに触れたとき。
ふと、胸の奥から言葉がこぼれた。
「……戻りたいと思ったんです」
自然と口に出ていた。
迅も、水月も、何も言わずに聞いている。
「意識が遠くなったとき、この場所に」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ここに、戻りたいって」
静かな声だった。
強くはない。
けれど、揺らがない響き。
部屋の空気が、やわらかく変わる。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
その沈黙は、重くない。
むしろ、受け止めるための間だった。
「……だったら」
やがて、迅が口を開く。
少しだけ間を置いてから続ける。
「今度からは、戻れる範囲でやれ」
視線は外したまま。
ぶっきらぼうな言い方。
けれど、それは否定ではなかった。
“続けること”を前提にした言葉だった。
「限界を越えて倒れたら、意味がない」
「……はい」
今度は、迷いなく頷けた。
水月も続ける。
『一気にやりすぎなんだよね。流れって、無理やり通すと反発も大きいし』
「反発……枯神のこと、ですか?」
『それもあるし、小夜自身への負担もね』
少しだけ真面目な声になる。
『だから、ちゃんと分けよう』
「分ける……?」
『役割』
軽く言いながらも、その内容ははっきりしていた。
『小夜は“繋ぐ”。これは変わらない。でも、無理に広げない』
「……はい」
『ぼくは“流れを整える”。暴れそうなら止める』
「止めるんですね」
『止めるよ。倒れられたら困るし』
さらりと言うが、その言葉は真っ直ぐだった。
そして、少し間を置いて。
『で、あの人は』
水月の気配が迅へ向く。
『守る係』
「勝手に決めるな」
すぐに返すが、否定しきらない声音。
「だが、間違ってはいない」
小さく付け足す。
それが答えだった。
白露が、静かに小夜のそばに座る。
自然な位置だった。
まるで、最初からそこにいるのが当然のように。
小夜は、その光景をゆっくりと見渡した。
神と、妖と、人。
本来なら交わらないはずの存在が、同じ場所にいる。
それが、もう違和感ではなかった。
「……やっていけそうです」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
「ここなら」
誰に向けたわけでもない。
けれど、ちゃんと届いているのが分かる。
水の音が、静かに続いている。
その音に重なるように、空気がやわらかくほどけていく。
距離が、少しずつ近づいていく。
ただ一つ。
小夜の指先に残る冷えだけが、まだ消えずに残っていた。
それが、これからの重さを静かに示しているようだった。
---
(続く)




