第8話 やわらかな日常と、小さなごちそう
朝の光は、やわらかかった。
木々の隙間から差し込む光が、水面にきらきらと反射している。
その揺らぎをぼんやりと眺めながら、小夜は静かに息を吐いた。
(……少し、楽です)
指先の冷えは、まだ残っている。
けれど昨日ほどではない。
身体の重さも、だいぶ引いていた。
『無理してない?』
水月の声が、すぐ近くに落ちる。
どこか様子を探るような響きだった。
「はい。今日は、無理はしません」
小夜が穏やかに答えると、水月は少しだけ間を置いたあと、ふっと息を抜いた。
『ならいいけど。昨日みたいなのは、さすがに見てて心臓に悪いからさ』
「水月にも、心臓があるんですか?」
『ないけど、そういう気分になるってこと』
少しだけ拗ねたような言い方に、小夜はくすりと笑った。
そのやり取りを、少し離れた場所で白露が静かに見ている。
朝の光を浴びた白い毛並みが、やわらかく輝いていた。
「白露、おはようございます」
声をかけると、白露は耳をぴくりと動かし、ゆっくりと近づいてくる。
その足取りは、すっかり落ち着いていた。
昨日までの警戒は、ほとんど感じられない。
すぐそばまで来ると、当たり前のように小夜の隣に座った。
『完全に居着いたね』
水月がくすっと笑う。
『ここ、気に入ったでしょって顔してる』
白露は何も言わない。
けれど、そのまま動かないことで答えていた。
---
そのとき、下の方から声が聞こえてきた。
「小夜ちゃん、いるかい?」
張りのある声。
お梅だった。
「はい、今行きます」
小夜は立ち上がり、石段をゆっくりと下りていく。
その動きに、白露も自然とついてきた。
途中で振り返ると、水月の気配もふわりとついてくるのが分かる。
---
畑の前に、お梅が立っていた。
今日は鍬ではなく、籠を持っている。
その中には、いくつかの野菜が入っていた。
まだ小ぶりだが、しっかりとした色をしている。
「これ、見ておくれ」
嬉しそうに差し出される。
小夜は思わず目を見開いた。
「……もう、こんなに」
昨日までとは明らかに違う。
葉の色が濃く、みずみずしい。
土の匂いも、少しやわらかくなっている。
「驚いたよ。水をやっただけじゃ、こんなに変わらない」
お梅は感心したように笑う。
「やっぱり、あんたとこの水のおかげだねぇ」
「いえ、私は少し繋いだだけで……」
「その“少し”が大事なんだろ?」
あっさりと言い切る。
その言葉に、小夜は少しだけ言葉を失った。
大げさに褒めるわけでもなく、でも軽く扱うわけでもない。
ただ、事実として受け取っている。
その距離感が、心地よかった。
「それでね」
お梅は籠を軽く持ち上げる。
「今日はこれで、ちょっとしたもん作ろうと思ってさ」
「お料理、ですか?」
「ああ。せっかく戻ってきた土で採れたもんだ。最初くらい、ちゃんと味わわないとね」
にっと笑う。
その顔は、とても嬉しそうだった。
---
簡単な煮物と、炊きたてのご飯。
それだけの、ささやかな食事だった。
けれど、湯気の立つ香りはどこか懐かしく、やさしい。
「……いただきます」
小夜は手を合わせる。
箸を取って、一口。
ゆっくりと噛む。
「……おいしい」
自然と、言葉がこぼれた。
派手な味ではない。
けれど、じんわりと身体に染みていくような味だった。
「だろう?」
お梅が満足そうに笑う。
「こういうのはね、派手じゃなくていいんだよ」
自分も一口食べながら続ける。
「ちゃんと食べられるって、それだけで十分なんだ」
その言葉に、小夜は静かに頷いた。
---
『いいなあ、それ』
水月の声が、少しだけ羨ましそうに響く。
『ぼく、食べられないのが地味に不満なんだけど』
「……供え物なら」
『ああ、それは感じるよ。でも“食べる”のとはちょっと違うんだよね』
少しだけ拗ねた声。
小夜は少し考えてから、小さく笑った。
「じゃあ、味の感想を伝えます」
『それで満足しろって?』
「はい」
きっぱりと言うと、水月が小さく吹き出した。
『……まあ、それも悪くないか』
---
「……あの兄ちゃんは来ないのかい?」
お梅がふと周囲を見回す。
“兄ちゃん”が誰かは、すぐに分かった。
「迅さん、ですか?」
「ああ。あの刀持ってるの」
「今日は見回りに行くと言っていました」
「そうかい。あの人も大変だねぇ」
しみじみと呟く。
「でも、ああいうのがいると安心だろ?」
小夜に視線を向ける。
その問いに、小夜は少しだけ考えた。
そして、素直に答える。
「……はい」
短い言葉だったが、迷いはなかった。
---
食事が終わる頃には、空気はすっかりゆるんでいた。
風がやわらかく通り抜ける。
水の音も、どこか穏やかに感じる。
白露は日向に丸くなり、静かに目を細めている。
お梅は満足そうに片付けをしながら、ふと呟いた。
「ここ、いい場所になってきたねぇ」
その一言は、軽いようでいて。
どこか、確かな実感を伴っていた。
---
小夜は、そっと周囲を見渡す。
まだ小さな場所。
でも、確かに変わっている。
人が来て、笑って、食べて。
それが当たり前のようにある。
---
(……ここが)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
---
(私の、居場所)
---
そう思えたことが、何よりも嬉しかった。
---
そのとき、風が少しだけ強く吹いた。
木々が揺れ、光が揺れる。
その一瞬だけ。
ほんのわずかに、空気が“揺らいだ”気がした。
---
小夜は、ふと指先を見つめる。
冷えは、まだ消えていない。
---
けれど今は。
それすらも、少しだけ受け入れられる気がした。
---
(続く)
面白いと思ったら、下の☆で評価していただけると励みになります




