第5話 広がる神域と、交わる想い
土に触れるたび、かすかに“流れ”を感じるようになっていた。
目には見えない。
けれど確かにそこにある、細い水のようなもの。
(……これが、地脈)
小夜は畝の端にしゃがみ込み、そっと手のひらを当てる。
昨日よりも、少しだけ分かる。
どこが滞っていて、どこに流れが通りやすいのか。
けれど同時に――
(……冷たい)
指先に残る感覚に、わずかに眉を寄せた。
ひやりとした冷えが、少しずつ内側へ入り込んでくる。
ほんの小さな違和感。
けれど、無視できる程度のもの。
(大丈夫……まだ)
小さく息を吐き、手を離す。
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「小夜ちゃん、これでいいのかい?」
張りのある声が、畑の向こうから飛んできた。
振り向くと、鍬を肩に担いだ女性が立っている。
日に焼けた肌に、力強い腕。
年の頃は四十を少し過ぎたあたりだろうか。
着物の裾を紐でまとめ、土に汚れるのも気にせず動き回るその姿には、長年この土地で生きてきた者の“芯の強さ”があった。
――お梅。
朽葉村で小さな畑を守り続けてきた農家の女性だ。
夫は数年前に病で亡くし、今は一人息子の新と二人で暮らしている。
土地が枯れ始めてからも村を離れず、わずかに残った水と土でなんとか作物を育ててきた。
だが、それも限界に近づいていた。
それでも――
諦めなかった人だ。
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「はい、もう少しだけ間を広げていただければ、水が通りやすくなると思います」
「へぇ……水の通り道まで考えるのかい」
お梅は感心したように目を細める。
その視線には、ただの興味だけでなく、“見極め”の色が混じっていた。
長年土地と向き合ってきた者だからこそ分かる。
目の前の変化が、本物かどうか。
---
「昔はねぇ」
鍬を土に軽く打ち込みながら、お梅はぽつりと呟く。
「こんなこと考えなくても、ちゃんと育ったんだよ」
その声は、懐かしむようで。
同時に、どこか諦めにも似た響きを含んでいた。
「水も勝手に回ってたし、土ももっとやわらかかった」
手に取った土を軽く握り、すぐに離す。
「……今じゃ、こうして人が手を入れないとどうにもならない」
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「昔は、神様もちゃんといたからだと思います」
小夜はやわらかく答えた。
「土地の流れが整っていれば、自然と巡っていくので」
「……なるほどねぇ」
お梅はゆっくりと頷く。
「じゃあ今は、それをあんたがやってるってことかい?」
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「……いえ、私は」
一瞬、言葉に迷う。
自分一人の力ではない。
それは、はっきりしている。
「水月と、一緒にやっています」
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「水月……あの祠の神様かい?」
「はい」
「姿は見えないんだろ?」
「……はい。でも」
胸に手を当てる。
「ちゃんと、います」
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お梅はしばらく何も言わなかった。
その沈黙は、疑いではない。
考えている沈黙だった。
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「……あたしはね」
やがて、ぽつりと口を開く。
「神様なんて、正直よく分からないよ」
はっきりと言う。
「昔はいたのかもしれない。でも、ここまで枯れちまったらねぇ」
肩をすくめる。
「信じる余裕なんて、なくなるさ」
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その言葉は、重かった。
信じないのではない。
“信じられなくなった”のだ。
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「……でもさ」
お梅は顔を上げる。
その目は、まっすぐ小夜を見ていた。
「この水は本物だ」
きっぱりと言い切る。
「新の熱も下がったし、畑も変わってきてる」
周囲を見渡す。
「だったら、理由なんてどうでもいい」
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一歩、踏み出す。
「役に立つなら、使うだけだよ」
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その言葉に、小夜は少しだけ息を呑んだ。
信仰ではない。
理屈でもない。
それでも――
確かな“選択”だった。
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「ここに来ると、少し落ち着くと思いませんか?」
小夜は静かに問いかける。
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お梅は、ふっと笑った。
「ああ、思うよ」
素直に答える。
「昨日より、ずっと楽だ」
胸に手を当てる。
「息がしやすい」
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「だったら、それで十分だよ」
にっと笑う。
「神様ってのは、そういうもんだろ?」
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完全に信じているわけではない。
それでも、否定もしない。
その距離感が、小夜には心地よかった。
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「小夜」
低い声が、背後から落ちる。
振り向くと、迅が立っていた。
鋭い視線が、すぐに小夜を捉える。
「顔色が悪い」
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その一言で、空気が少し変わる。
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「え……」
「誤魔化すな」
短く言い切る。
「さっきから、手を押さえている」
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小夜は、思わず自分の手を見る。
無意識だった。
冷えを紛らわせるように、指先を握っていた。
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「……少し、冷たいだけです」
「それが問題だと言っている」
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迅は一歩近づく。
その動きには迷いがない。
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「昨日も言ったはずだ」
「急激な変化には歪みが出る」
「……はい」
「お前自身も例外じゃない」
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その言葉に、小夜は言葉を失う。
分かっている。
でも――
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「……止めるわけには、いきません」
小さく、しかしはっきりと答える。
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お梅が、そのやり取りを黙って見ていた。
そして、ぽつりと口を挟む。
「……無茶してんのかい?」
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その一言は、重かった。
迅のような鋭さはない。
けれど、“生活の中で見てきた人間の限界”を知っている声だった。
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「……少しだけ、です」
「“少し”で倒れるやつ、何人も見てきたよ」
即答だった。
お梅は小夜をじっと見つめる。
「頑張るのはいい。でもね」
一歩、近づく。
「倒れたら、終わりなんだよ」
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その言葉は、静かに刺さった。
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迅は何も言わない。
ただ、同じことを思っている目だった。
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小夜は、ゆっくりと息を吐いた。
視線を畑へ向ける。
ここは、少しずつ戻っている。
確かに。
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「……それでも」
小さく、呟く。
「やります」
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お梅は、しばらく何も言わなかった。
やがて――
「……頑固だねぇ」
苦笑する。
「嫌いじゃないけどさ」
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そして、鍬を肩に担ぎ直す。
「だったら、せめて倒れない程度にやりな」
「……はい」
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そのとき。
白露が、ふいに顔を上げた。
耳が鋭く動く。
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空気が、変わる。
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迅の手が剣にかかる。
「……来るぞ」
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神域の中に、異質なものが入り込む。
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そして――
小夜の指先は、すでに“冷えたまま”だった。
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(続く)
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