第4話 神域の広がりと、見えない歪み
祠の朝は、静かで――やさしい。
風が木々を揺らし、水音がそれに重なる。
その音の中で目を覚ますことが、いつの間にか当たり前になっていた。
(……あたたかい)
小夜は胸の奥でそう感じながら、ゆっくりと起き上がる。
以前のような“冷えた空気”は、もうない。
ここには確かに、“何か”が戻り始めている。
---
外に出ると、白露がすでにそこにいた。
祠の脇に座り、周囲を静かに見渡している。
「おはよう、白露」
声をかけると、白露の耳がわずかに動いた。
視線がこちらに向く。
それだけで、十分だった。
---
『今日もやるの?』
水月の声が、どこか楽しそうに響く。
「はい。少しずつ、広げていきたいです」
小夜は畑の方へ目を向ける。
まだほんの一角。
けれど、そこだけは確かに色が違う。
土がやわらかく、空気が澄んでいる。
『いいね。昨日より、流れが安定してる』
「流れ……ですか?」
『うん。地脈』
さらりと告げる。
『本当はもっと深いところを流れてるんだけどさ、ここはほとんど止まってた』
小夜は、ゆっくりと土を見下ろした。
見えないはずなのに、なんとなく“分かる”。
かすかに、何かが巡っている感覚。
『小夜が触ると、そこが繋がるんだよね』
「……繋がる」
『そう。せき止められてた水が、また流れ出すみたいに』
水月の声は軽い。
けれど、その意味は決して軽くない。
---
「……そんなこと、私にできるんでしょうか」
思わず呟く。
『もうやってるよ』
即答だった。
『じゃなきゃ、ここまで変わらないって』
その言葉に、小夜は少しだけ息を呑む。
“できている”と言われることに、まだ慣れない。
---
「……少しだけ、試してみます」
小夜は畑の端に立つ。
まだ手をつけていない、乾いた土。
ひび割れ、色を失ったままの場所。
そこに、そっと手をかざした。
---
目を閉じる。
深く、息を吸う。
(お願い、じゃなくて……)
水月の言葉を思い出す。
“繋ぐ”こと。
押し付けるのではなく、通す。
---
「……ここに、流れてください」
静かに、言葉を落とす。
祈りというより、対話のように。
---
その瞬間。
ぴくり、と。
指先に、微かな感触が走った。
冷たいような、あたたかいような、不思議な流れ。
「……!」
思わず目を開ける。
土の色が、ほんのわずかに変わっている。
完全ではない。
けれど、確かに“違う”。
---
『……ほんとにやるんだね』
水月の声が、少しだけ低くなる。
「……少しだけ、です」
息を整えながら答える。
たったそれだけで、身体がじんわりと重い。
指先が、少し冷えている。
(……これが)
まだ小さい。
けれど、確かに何かを“使っている”感覚。
---
「……無理は、していません」
自分に言い聞かせるように呟く。
『そういう顔してないけど』
水月がぼそりと言う。
「え……?」
『ちょっと、頑張りすぎてる顔』
からかうようでいて、どこか心配そうな声音。
---
そのとき。
白露が、すっと立ち上がった。
耳がぴんと立ち、森の奥を見据える。
「……白露?」
次の瞬間。
低い唸り声。
明らかな警戒。
---
空気が変わる。
やわらかかった空間に、鋭い“何か”が混じる。
『……来る』
水月の声も、緊張を帯びた。
---
ざ、と草を踏む音。
木々の間から現れたのは――
黒ずんだ影。
形は獣に近い。
だが、その動きは不自然で、どこか歪んでいる。
「……あれは」
『枯神だ』
水月が短く告げる。
『神が消えた場所に残る“歪み”みたいなもの』
---
枯神は、低くうなりながらこちらを睨む。
目が、濁っている。
生きているのかどうかも分からない。
ただ、“良くないもの”だと直感できた。
---
「どうして……ここに」
『神域ができ始めてるから』
水月の声が硬い。
『流れが戻ると、こういうのも引き寄せる』
---
枯神が、一歩踏み出す。
その瞬間。
白露が前に出た。
小夜を庇うように。
---
「……白露、危ない」
思わず声を上げる。
だが、白露は引かない。
低く構え、鋭く睨み返す。
---
緊張が張り詰めた、そのとき。
風が裂けた。
---
鋭い一閃。
次の瞬間、枯神の身体が弾かれる。
「――下がっていろ」
聞き慣れた声。
迅だった。
---
いつの間にか現れ、すでに剣を振り抜いている。
その動きは迷いがなく、無駄がない。
「こいつはお前たちが相手にするものじゃない」
低く言いながら、再び踏み込む。
枯神が唸り声を上げる。
だが、その動きはどこか鈍い。
---
数合のやり取りのあと。
迅の刃が、正確にその“核”を断ち切った。
---
音もなく、枯神は崩れ落ちる。
そして――
砂のように、消えた。
---
静寂が戻る。
先ほどまでの緊張が、嘘のように消えていく。
---
「……大丈夫か」
迅が振り返る。
「はい……」
小夜は頷く。
けれど、胸の鼓動はまだ早い。
---
「今のは、枯神だ」
改めて説明するように言う。
「この土地の歪みが形になったものだ」
「……歪み」
「急激に環境が変わると、こういうものが生まれる」
視線が、小夜へ向く。
「心当たりはあるか」
---
小夜は、わずかに息を詰めた。
先ほどの感覚。
地脈を“動かした”こと。
---
「……少しだけ」
正直に答える。
「土に、触れて……」
「やめておけ」
即座に言われた。
「お前がやっていることは、思っている以上に危うい」
---
その言葉に、小夜は何も言えなかった。
否定できない。
分かっている。
それでも――
---
「……でも」
小さく、声が漏れる。
「何もしなければ、このままです」
視線を、枯れた土地へ向ける。
「少しでも、変えられるなら」
---
迅はしばらく何も言わなかった。
ただ、小夜を見ている。
その目は、怒っているわけではない。
試すように、見極めるように。
---
「……なら」
やがて、低く口を開く。
「せめて、一人でやるな」
「え……?」
「こういうものが出る以上、守りが必要だ」
白露の方を見る。
「そいつもいるが、それだけじゃ足りない」
---
そして、小夜へ視線を戻す。
「俺が見る」
短く、言い切った。
---
小夜は目を見開く。
「……いいんですか」
「放っておく方が面倒だ」
ぶっきらぼうな返答。
けれど、その声音にはわずかな本音が混じっていた。
---
『増えたね』
水月がくすっと笑う。
『守る人』
---
小夜は、ゆっくりと息を吐いた。
怖さは消えていない。
不安もある。
それでも――
---
ひとりじゃない。
---
その事実が、何よりも大きかった。
---
そして同時に。
この場所が、確実に変わり始めていることも。
---
良くも、悪くも。
---
(続く)
面白いと思ったら、下の☆で評価していただけると励みになります




