第3話 白露と迅、そして最初の選択
朝の光が、祠の周囲にやわらかく差し込む。
葉の隙間からこぼれる光が、水面に揺れていた。
小夜はその前にしゃがみ込み、静かに手を合わせる。
昨日と同じ所作。
けれど、心の中はまるで違っていた。
(……ここに、いる)
祈りはまだぎこちない。
それでも、“届いている”感覚がある。
『おはよう、小夜』
水月の声が、すぐ近くで響いた。
「おはよう、水月」
自然に返せたことに、小夜は少しだけ驚く。
昨日までは、神と会話するなんて考えたこともなかった。
それが今では、こうして当たり前のように言葉を交わしている。
『ねえ、あの子』
水月が、ふっと気配を動かす。
小夜も視線を向ける。
少し離れた木陰。
そこに、白い影があった。
---
狐は、今日も同じ場所にいた。
だが昨日より、ほんの少しだけ距離が近い。
こちらをじっと見ているその瞳は、警戒だけではない。
何かを確かめるような色を帯びていた。
「……来てくれたんですね」
小夜は静かに声をかける。
返事はない。
それでも、狐は逃げなかった。
---
小夜は、ゆっくりと立ち上がる。
急がず、距離を詰めすぎず。
一歩だけ、前へ。
狐の耳がぴくりと動く。
だが、それ以上は下がらない。
(……大丈夫)
そう思えた。
---
「……白露」
小夜は、ぽつりと呟いた。
白い毛並みが朝露に濡れて、淡く光っている。
その姿に、自然と浮かんだ名前。
「似合うと思って」
言葉を添える。
狐――白露は、じっと小夜を見つめたまま動かない。
だが。
その瞳の奥で、何かがわずかに揺れた気がした。
---
『名前つけたの?』
水月がくすっと笑う。
「……勝手に、ですけど」
『ああいうの嫌がる妖もいるよ』
「……そう、なんですか」
少しだけ不安になる。
だが、そのとき。
白露が一歩、近づいた。
ほんのわずかに。
それだけで、十分すぎる答えだった。
(……受け入れてくれた)
小夜の胸に、静かな喜びが広がる。
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そのときだった。
背後の空気が、ぴりりと張り詰めた。
「――そこを動くな」
低い声が、鋭く響く。
振り向く間もなく、小夜の身体が反射的に止まる。
次の瞬間。
風を切る音。
何かが、小夜のすぐ横をかすめた。
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「……え」
遅れて振り向く。
そこには、一人の男が立っていた。
手には、抜き身の刃。
鋭い視線が、まっすぐ白露へ向けられている。
---
「妖だ」
短く、断言する。
「人里の近くに出るようなものは、放置できない」
その言葉に、空気が凍る。
白露の身体が、わずかに低く構えた。
逃げるでもなく、攻めるでもなく。
ただ、警戒している。
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「……待ってください!」
小夜は思わず声を上げた。
男の視線が、すぐにこちらへ向く。
「その子は、何もしていません」
「今はな」
冷たい返答。
「だが、妖はいつ変わるか分からない」
一歩、踏み出す。
刃先が、わずかに白露へと近づく。
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「やめてください!」
小夜はその前に立った。
自分でも驚くほど、身体が勝手に動いていた。
「この子は……ここに来ただけです」
言葉を探す。
正しい説明なんて、分からない。
それでも。
「ここが、落ち着くから来ているだけなんです」
---
男はしばらく小夜を見つめていた。
その視線は、試すように鋭い。
「……根拠は」
「……ありません」
正直に答える。
それでも、目は逸らさない。
「でも、分かるんです」
胸に手を当てる。
「この子は、ここを壊そうとしていません」
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沈黙。
風の音だけが、静かに流れる。
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やがて、男はゆっくりと刃を下ろした。
「……名は」
「え?」
「お前の名前だ」
ぶっきらぼうな言い方。
「小夜、です」
「……そうか」
短く答えると、男は視線を白露から外した。
完全に警戒を解いたわけではない。
それでも――
一線は、越えなかった。
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「俺は迅だ」
名乗る。
「この辺りの見回りをしている」
「見回り……」
「妖や、妙な気配をな」
その言葉に、小夜は少しだけ納得した。
この土地は、荒れている。
何が起きてもおかしくない。
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迅は、改めて周囲を見渡す。
祠。水。空気。
そのすべてを、確かめるように。
「……妙だな」
ぽつりと呟く。
「何が、ですか?」
「この土地だ」
しゃがみ込み、土に触れる。
「数日前まで死んでいたはずだ」
指先で土をすくい、軽く握る。
「それが、この状態まで戻っている」
ゆっくりと立ち上がる。
そして、小夜を見た。
「お前がやったのか」
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小夜は一瞬、言葉に詰まった。
どこまで話していいのか分からない。
けれど――
「……ひとりではありません」
そう答えた。
「ここには、水月がいます」
「水月?」
「この祠の神様です」
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迅の目が、わずかに細められる。
「……神、か」
その声音には、微かな警戒が含まれていた。
信じていないわけではない。
だが、簡単には受け入れない。
そんな距離感。
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「見えるのか」
「……姿は、見えません。でも」
胸に手を当てる。
「ちゃんと、います」
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しばらくの沈黙のあと。
「……そうか」
迅はそれ以上、追及しなかった。
完全に納得したわけではない。
だが、否定もしない。
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「関わるなら、覚悟しろ」
低く告げる。
「ここは、普通の場所じゃない」
「……はい」
「人も、妖も、神も」
視線が、白露へ向く。
そして、小夜へ戻る。
「全部巻き込むことになる」
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その言葉は、警告だった。
けれど同時に――
認めているようにも聞こえた。
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「……それでも」
小夜は、ゆっくりと頷く。
「ここを、放っておくことはできません」
その答えに、迅はわずかに目を伏せた。
そして。
「……好きにしろ」
短く言う。
だが、すぐに続けた。
「ただし」
視線が、まっすぐ小夜を捉える。
「無茶はするな」
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その言葉に、小夜は少しだけ目を見開いた。
冷たい人だと思っていた。
けれど、その奥にあるものは――
「……はい」
小さく、頷く。
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白露が、静かにその場に座った。
もう逃げる気配はない。
水月の気配が、やわらかく広がる。
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神と、妖と、人。
それぞれ違うものが、同じ場所にいる。
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まだ不安定で、危うくて。
それでも確かに――
繋がり始めていた。
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(続く)
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