第38話「心情」
広場の喧騒を抜け、小夜と迅は社の裏手にある小さな庭へ向かった。日差しは柔らかく、風が神域の香りを運ぶ。
「……迅」
小夜はふと呼びかけると、今までのように「です」「ます」を付けず、ただ名前を呼んでいた。心臓が高鳴る。無意識に、口が自然に彼を呼んでいたのだ。
迅は足を止め、静かに小夜を見下ろす。いつもは冷静で、無言で守る彼の瞳が、ほんのわずかに驚きを含んでいるのがわかる。
「……小夜」
彼もまた、呼び捨てではないけれど、距離が近い言葉で返した。その声の低さと温かさに、小夜は胸がぎゅっと締め付けられる。
「……自然に、呼べちゃった」
小夜は自分の心に気づき、恥ずかしさで視線を逸らす。だが同時に、解放感が胸に広がった。敬語は礼儀であり防御だった。けれど今は、迅の存在がそれを必要としないことを、体で感じている。
迅はゆっくりと彼女に近づき、手を差し伸べる。小夜はその手を握り返す――微かに、しかし確かな力で。
「……俺でいいんだな」
彼の言葉に、小夜は微笑む。心の奥で、ずっと封じていた気持ちが少しだけ解き放たれる。敬語をやめることは、彼に自分の本当の距離を委ねることだった。
「はい……迅」
言葉と心が自然に結びつく瞬間。もう防御は要らない。敬語は消え、二人だけの呼び名が残る。心地よく、温かく、そして――二人の世界が少しだけ近づいた。
風がそよぎ、庭の花々が揺れる。その間も、小夜の手は迅の手から離れず、互いの存在を確かめ合う。敬語をやめたその瞬間、二人の距離は言葉以上に縮まったのだった。
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