第33話「離れる理由」
朝の空気は、どこまでも澄んでいた。
町は穏やかだった。人の声があって、笑いがあって、祈りがあって——かつて“何もなかった場所”とは思えないほど、満ちている。
それなのに、小夜は自分の指先を見つめていた。
「……」
触れているはずの空気の感触が、薄い。確かに触れているのに、どこか遠い。まるで、自分だけがこの世界から半歩ずれているみたいに感じた。
ぎゅっと、指を握る。
「……大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
気づかれてはいけない。これは——きっと、些細なことだ。そう、思いたかった。
「小夜」
不意に声をかけられ、肩が揺れる。
振り向くと、水月がいた。静かな眼差しで、こちらを見ている。
「顔色が悪いな」
「……そう、ですか?」
いつものように微笑む。何事もないように。
「ああ。無理をしている顔だ」
言い切られる。
「……」
水月は一歩近づく。
「神格が上がった影響で、“見えるもの”も増えた」
「……はい」
「ああ、だからわかる」
その視線が、小夜の手に落ちる。
「それは“兆し”だ」
「……兆し?」
小夜の喉が、かすかに鳴る。
「満ちた場所には、必ず歪みが生まれる。お前の力は、その中心にある」
「……」
否定したかった。でも、できなかった。
あの声が、脳裏に蘇る。
『……かえせ』
空っぽの声。欠けたものの声。
「……そう、ですか」
小夜は、ゆっくりと目を伏せた。
「なら、やっぱり——」
そのときだった。
「——話は終わった?」
冷たい声が、空気を裂いた。
振り向くと、そこに立っていたのは火乃香だった。
凛とした姿。揺るがない視線。
「……火乃香さん」
「命令よ」
間を置かずに告げる。
「その力の使用を、制限しなさい」
空気が凍る。
「……理由を、伺っても?」
「既に報告は上がっているわ」
淡々と。
「再生された土地に、“歪み”が発生している」
「……」
「それが偶然だと思う?」
「……思いません」
小夜は、静かに答えた。
「なら話は早い」
火乃香の瞳が、まっすぐに射抜く。
「その力は、“恵み”であると同時に“侵食”よ」
「……」
「世界の均衡を崩す側」
その言葉は、刃のように鋭かった。
「あなたは——どちらに立つの?」
問いではない。断罪に近い。
「……」
小夜は、何も言えなかった。
言えなかったのではない。言える言葉が、なかった。
代わりに、あの感覚がよみがえる。
指先の、空白。存在が、少しずつ削れていくような違和感。
「……そう、ですね」
ぽつりと、口から零れた。
火乃香は一瞬、目を細める。
だがすぐに、顔を戻す。
「……命令だから、仕方がない。お前にとっても、自分を守ることになるわ」
その言葉に、小夜の胸はざわついた。
——守られたい。
でも、守られるわけにはいかない。
水月の手が、そっと小夜の肩に触れる。
「怖くても、立ち向かえ」
無言の励まし。
小夜は、視線を前に戻す。
火乃香の影を受けて、冷たい風が吹いたが、心は微かに強くなっていた。
——この力で、私は守る。
世界も、自分も。
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