第32話「行かないで」
夜だった。
街は静かで、灯りだけがやわらかく揺れている。
水守の社の奥。
小夜は一人、座っていた。
指先を見つめる。
ほんの少し。
ほんの少しだけ——感覚が薄い。
「……大丈夫」
小さく呟く。
以前のような“消える恐怖”は、もうない。
それでも——
“何かが変わっている”違和感だけが、残っていた。
「……無理をしている顔だな」
低い声。
振り返る前にわかる。
「……迅さん」
いつも通り、そう呼ぶ。
迅は、少しだけ眉を寄せていた。
「顔色が悪い」
「いえ……少し疲れているだけです」
「嘘だな」
即答だった。
逃げ場を与えない声音。
「……本当に、大丈夫です」
立ち上がろうとした、その瞬間。
ふらりと、視界が揺れた。
「——っ」
倒れる前に、腕を掴まれる。
強い力。
けれど、乱暴ではない。
「大丈夫じゃない」
低く、押し殺した声。
小夜は視線を逸らす。
「……離してください」
「離さない」
即答。
いつもより、わずかに強い。
「迅さん……」
「誤魔化すな」
その一言で、息が詰まる。
見透かされている。
全部。
それでも——
「……平気です」
繰り返す。
祈るように。
自分に言い聞かせるように。
「私なら——」
「違う」
遮られる。
初めてだった。
こんなふうに、言葉を切られるのは。
「“お前なら大丈夫”じゃない」
掴む手に、力がこもる。
「お前が無理をしてるのは、見ればわかる」
「……っ」
「それでも何も言わないのは——」
一瞬、言葉が止まる。
そして。
「……言えないだけだろ」
その言葉が、胸に刺さる。
小夜の指先が、震えた。
「……違います」
「違わない」
「違います……!」
声が、少しだけ強くなる。
けれど——
その次の言葉が、出てこない。
代わりに、出たのは。
「……心配、かけたくなくて」
小さな、本音だった。
沈黙が落ちる。
迅の手の力が、わずかに緩む。
けれど、離れない。
「……なんで」
低く、絞るような声。
「なんで、お前はそうやって」
言葉が続かない。
苛立ちでも、怒りでもない。
それよりも、もっと——
切実な何か。
「……俺に言えない」
その一言で。
何かが、切れた。
「違う……!」
気づけば、声が出ていた。
初めてだった。
こんなふうに、感情のままに声を上げたのは。
「言えないんじゃなくて……!」
胸が苦しい。
息が浅い。
「言ったら……」
言葉が震える。
「止められるから……」
沈黙。
迅の瞳が、わずかに揺れる。
「……だから、言えないのか」
「……はい」
頷く。
それが、答え。
それでも——
「でも」
言葉が、止まらない。
「それでも、やらないといけないんです」
顔を上げる。
「ここは、私が守るって決めたから」
強い瞳。
静かで、揺るがない。
けれど。
「……だから、放してくださ——」
その言葉は、最後まで言えなかった。
ぎゅっと、腕を引かれる。
「放さない」
近い。
息がかかる距離。
「行かせない」
低く、はっきりと。
その言葉に。
胸の奥が、強く揺れた。
「……どうして」
問いかける。
わかっているはずなのに。
それでも、聞きたかった。
迅は、少しだけ目を伏せて。
そして、言った。
「——失いたくないからだ」
時間が、止まる。
その一言で。
世界が、静かになる。
「……え」
思考が、追いつかない。
迅は、続ける。
「理由はそれで十分だ」
短く。
けれど、揺るがない。
「お前が消えるなら、全部止める」
その言葉に。
胸が、締め付けられる。
息が、苦しい。
なのに——
どうしてこんなに、温かいのか。
「……やだ」
ぽつりと、零れた。
自分でも、驚くくらい自然に。
「……?」
「それは……やだ」
顔を上げる。
目が、合う。
その瞬間。
もう、止まらなかった。
「放して」
敬語じゃない。
初めての、言い方。
迅の目が、見開かれる。
「平気だから……」
震える声。
それでも、続ける。
「だから——」
一瞬、息を呑む。
そして。
「……迅」
“さん”が、消えた。
空気が、変わる。
はっきりと。
確実に。
何かが変わった。
「……お願い」
その一言で。
迅の呼吸が、止まる。
掴んでいた手が、わずかに震えた。
けれど——
離れない。
むしろ、強くなる。
「……無理だ」
低く、掠れた声。
「その呼び方で頼まれても」
目を逸らすように、言う。
「余計に、離せなくなる」
「……っ」
顔が熱い。
どうしてこんなに、苦しいのか。
どうしてこんなに、嬉しいのか。
わからない。
でも——
「……行かないで」
気づけば、言っていた。
自分でも、意味がわからない言葉。
守るって、決めたのに。
それなのに。
矛盾した願いが、零れる。
迅は、動かなかった。
ただ。
静かに、小夜を見つめていた。
そして。
ゆっくりと、息を吐く。
「……ああ」
短く、答える。
「行かない」
その一言で。
力が抜けた。
支えられるように、身を預ける。
拒まれない。
逃げられない。
でも——
それでいいと思った。
初めて。
そう思えた。
迅の手が、わずかに震えていることに。
小夜は、気づかなかった。
けれど。
その震えは——
“守る対象”ではなく。
“失いたくない存在”として、触れている証だった。
---
——その夜。
ふたりの距離は、確かに変わった。
戻れないほどに。
静かに、深く。
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