第31話「ここにいるのに、いない」
朝の光は、やわらかかった。
新しくなった社の縁側に、淡く差し込む。
穏やかで、何もかもが満ちているような時間だった。
「……小夜」
名を呼ばれて、小夜は顔を上げた。
「迅」
いつも通り。
変わらない声音。
けれど——
「今日の見回りだが」
迅が言いかけて、ふと止まる。
ほんの一瞬。
ほんの、わずかな間。
今、小夜は——
“遅れて返事をした”ように見えた。
(……気のせいか)
すぐに思考を打ち消す。
だが、胸の奥に小さな棘が残る。
「……南の水路を見に行く」
「わかりました」
今度は、違和感はない。
自然な間。
自然な動き。
それでも——
さっきの一瞬が、離れない。
二人で歩く。
整えられた道。
かつて荒れていた土地は、今では見違えるほど穏やかだ。
畑は豊かに実り、水は澄み、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえる。
「……すごいですね」
小夜がぽつりと言った。
「最初に来たときとは、全然違う」
「……ああ」
迅は短く答える。
その横顔は変わらない。
けれど視線は、どこか落ち着かない。
小夜を見る。
そして、すぐ逸らす。
また見る。
——確かめるように。
「迅?」
「……なんでもない」
そう言って歩みを進める。
だが、小夜の歩幅がほんの少しだけ遅れていることに気づく。
いや、違う。
遅れているわけじゃない。
“噛み合っていない”。
まるで、同じ道を歩いているのに、
微妙に別の時間を進んでいるような——
そんな違和感。
「……小夜」
足を止める。
「はい」
すぐに返事が返る。
今度は、遅れはない。
「……お前」
言葉が、喉で止まる。
聞くべきか。
聞いていいのか。
何を、聞く?
何を、疑っている?
「……いや」
首を振る。
「戻るぞ」
「はい」
その声は、やはり優しい。
いつもの小夜だ。
けれど——
“何かが違う”
確信に変わりきらない違和感が、確実に形を持ち始めていた。
夕方。
一人になった社の裏手。
風が、静かに吹く。
小夜は、そっと手を持ち上げた。
自分の指先を見つめる。
「……」
わずかに。
ほんの、わずかに。
光が透けていた。
最初は気のせいだと思った。
疲れているだけだと。
でも、違う。
確かに——
“薄くなっている”。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。
「まだ、大丈夫……」
その声は、少しだけ震えていた。
ぎゅっと手を握る。
感覚はある。
ちゃんと、ここにいる。
いる、はずなのに。
ふと——
名を呼ばれた気がした。
「——小夜」
振り返る。
誰もいない。
けれど——
胸の奥が、わずかに温かい。
(……ああ)
理解してしまう。
自分でも、気づいている。
少しずつ。
確実に。
自分は——
“この世界から、ずれていっている”。
それでも。
それでも——
「……まだ、終わらせない」
静かに、笑った。
優しく。
いつもと同じように。
誰にも気づかれないように。
——それは、
崩れ始めた日常の中で、
たった一つだけ変わらない“祈り”だった。
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