第30話「守りたいのに、触れられない」
夕暮れの街は、やわらかな光に包まれていた。
石畳は温もりを残し、行き交う人々の声は穏やかで、どこか安心に満ちている。
かつて朽ちかけていた村だったとは思えないほど、この場所は“生きていた”。
「……すごいな」
ぽつりと、迅が呟く。
その視線の先では、小夜が子どもたちに囲まれていた。
笑っている。
柔らかく、あたたかく。
誰かの名前を呼び、手を取り、頭を撫でている。
「小夜さまー!」 「こっち見て!」
無邪気な声に応えるように、小夜が振り返る。
その瞬間、ふわりと風が吹いた。
——どこか、現実感のない光景だった。
「……」
迅は、無意識に歩み寄っていた。
小夜が気づく。
「あ、迅」
少しだけ驚いたように、けれどすぐに微笑む。
「どうしたの?」
「……いや」
言葉が続かない。
ただ、近くにいたかった。
それだけだった。
子どもたちが去り、小夜と迅だけが残る。
静かな時間。
夕焼けが、二人の間に影を落とす。
「……今日は、少し落ち着いてるな」
「うん。みんな、安心してくれてるみたい」
小夜はそう言って、胸に手を当てた。
「ここ、あったかいの」
その仕草に、迅の視線が止まる。
——あたたかい、はずなのに。
なぜか、違和感があった。
「……小夜」
呼ぶ。
小夜が顔を上げる。
「なに?」
その声は、いつも通りだった。
なのに。
「……手、貸せ」
「え?」
戸惑いながらも、小夜は手を差し出す。
白くて、小さな手。
迅はそれを——
そっと、掴んだ。
「……っ」
その瞬間。
違和感が、確信に変わる。
冷たい、わけじゃない。
温もりはある。
でも——
“掴んでいる感覚が、薄い”。
まるで、水の中のものを触れているような。
確かにそこにあるのに、輪郭が曖昧で。
指の間から、すり抜けていきそうな感覚。
「……迅?」
小夜が、不思議そうに見上げる。
「どうしたの?」
「……いや」
思わず、力が入る。
確かめるように、指を絡める。
それでも。
“繋がっているはずなのに、繋がっていない”。
「……大丈夫?」
小夜が、少しだけ心配そうに笑う。
「変な顔してるよ」
その言葉に、迅ははっとする。
「……悪い」
ゆっくりと、手を離した。
離れた瞬間。
ほんの一瞬だけ。
“そこに何もなかったような感覚”が残った。
「……」
小夜は、何も言わない。
ただ、いつも通りの顔で。
「ね、迅」
穏やかに、微笑む。
「ありがとう」
「……何がだ」
「そばにいてくれること」
その言葉は、あまりにも自然で。
まるで、それが当たり前のようで。
「……」
迅は、言葉を失う。
——違う。
何かが、おかしい。
でも。
小夜は、何も言わない。
気づいていないのか。
それとも——
気づいていて、隠しているのか。
「……小夜」
名前を呼ぶ。
小夜が、少しだけ首を傾げる。
「なに?」
その仕草が、あまりにも普通で。
あまりにも、いつも通りで。
——だからこそ、怖かった。
「……いや」
結局、何も言えない。
言えば、壊れてしまいそうで。
「……帰るぞ」
「うん」
小夜は、素直に頷いた。
並んで歩く。
肩が触れそうで、触れない距離。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばす。
その影は、確かに並んでいるのに——
どこか、ずれて見えた。
―――
その夜。
迅は、一人で立っていた。
水守の社の外。
静まり返った空気の中で。
ゆっくりと、自分の手を見る。
先ほど、小夜に触れた手。
「……なんだ、あれ」
低く、呟く。
握る。
開く。
何も変わらない。
だが——
あの感覚だけが、消えない。
確かに触れたはずなのに。
“掴めていなかった”。
「……」
思い出す。
小夜の笑顔。
あの、何も知らないような顔。
「……っ」
無意識に、強く拳を握る。
——違う。
あれは。
ただの疲れじゃない。
ただの気のせいでもない。
「……ふざけるな」
誰に向けた言葉かもわからないまま、吐き捨てる。
そして、静かに目を閉じた。
浮かぶのは、一つだけ。
“消えていくもの”。
「……」
ゆっくりと、目を開く。
その瞳には、迷いはなかった。
「……離さねぇ」
小さく、しかし確かに。
「絶対に」
それは、誰にも聞かれない誓いだった。
だが——
その言葉とは裏腹に。
夜風の中で。
その手は、ほんのわずかに震えていた。
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