第28話「祈りの重さ」
夕暮れの神域は静かだった。橙に染まる空の下、再生された大地は穏やかな息をしている。社の鈴が風に揺れて、小さく鳴った。
その静けさを、踏みしめる足音が破る。
「……随分と、整っているのね」
振り返るまでもなく分かる声だった。
小夜はゆっくりと立ち上がり、背後を向いたまま答える。
「……火乃香さん」
その名に込めた響きは柔らかくもあり、どこか固い。
火乃香は神域を一望する位置で立ち止まり、視線だけで全てを測るように見渡した。
「ここが、あなたの“神域再生”」
「……思った以上ね。でも——」
その一言で、空気が変わる。
「綺麗すぎる」
小夜の指先が、わずかに揺れた。
「綺麗、ですか……?」
「ええ」
火乃香は静かに歩み寄る。
「痛みが見えない」
その言葉は刃のように真っ直ぐだった。
「祈りってね、小夜。そんなに優しいものじゃないの」
一歩、また一歩と近づく。
「救われたい、なんて言葉の裏には、必ず“誰かを犠牲にしてでも”って願いがある」
淡々と、事実のように告げる。
「それでも、あなたは全部を救うつもり?」
問いではない。試すような声音だった。
小夜は少しだけ視線を落とし、そしてゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
迷いはなかった。
火乃香の眉が、わずかに動く。
「本気で言ってるの?」
「本気です」
小夜の声は小さい。けれど、確かに届く強さがあった。
「私は……全部を救いたいです」
「無理よ」
即答だった。
「そんなもの、存在しない」
火乃香は一歩踏み込む。
「選ばなきゃいけないの。救う祈りと、捨てる祈りを」
その言葉に、小夜の胸がきゅっと締めつけられる。
「……どうして、捨てる必要があるんですか」
火乃香は少しだけ目を細めた。
「全部を拾おうとすれば、全部が零れるからよ」
静かだった。怒りでも、否定でもない。ただ、経験からくる確信。
「あなたのそれは、まだ誰も取りこぼしていない状態の理想論」
「……違います」
小夜は、初めて一歩前に出た。
「私は……取りこぼさないために、この力を使ってます」
火乃香の目が、わずかに細くなる。
「……“つもり”でしょう」
空気が、ぴたりと張り詰めた。
「その力はね、小夜。均衡を壊すの」
火乃香は神域を見渡す。
「満ちすぎた場所には、必ず歪みが生まれる。あなたも、もう感じているはずよ」
小夜の脳裏に、あの声が蘇る。
『……かえせ』
無意識に、指先を握りしめる。
ほんの少しだけ、感覚が薄い。
火乃香はそれを見逃さなかった。
「ほらね」
静かな確信。
「あなたの“救い”は、既に何かを削っている」
「……それでも」
小夜は顔を上げる。
「それでも、私はやめません」
火乃香の目が、わずかに見開かれた。
「誰かを見捨てるくらいなら、私は全部を抱えます」
震えている。けれど、逃げてはいない。
「たとえ、それで——」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも、小夜は言い切った。
「私が壊れても」
沈黙が落ちた。
風の音だけが、静かに通り過ぎる。
火乃香はしばらく小夜を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……やっぱり、危ういわね」
その声は、わずかに柔らいでいた。
「でも嫌いじゃないわ、その覚悟」
くるりと背を向ける。
「だからこそ——」
足を止めずに、言い残す。
「あなたが“本当に選ばれる巫女”になれるかどうか、見届けてあげる」
そのまま、火乃香の姿は夕闇に溶けていった。
残された静寂の中、小夜はその場に立ち尽くす。
ぎゅっと、自分の手を握る。
指先の感覚は、やはり少しだけ薄い。
それでも。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、呟く。
その声は小さい。けれど、確かに揺れてはいなかった。
神域は静かに息づいている。
満ちていく世界の中で。
まだ誰にも見えない“歪み”だけが、確かにそこに在った。
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