第26話「名前の重さ」
朝。
街は、もう動き出していた。
水を汲む音。
店を開ける音。
人の声。
——生きている音。
迅は、それを少し離れた場所から見ていた。
変わった、と思う。
この場所も。
人も。
空気も。
全部。
(……あいつのせいだな)
自然と浮かぶのは、あの巫女の顔。
ぼんやりしていて。
頼りなさそうで。
でも——
誰よりも、ここに立っているやつ。
「迅!」
呼ばれる。
振り向く前に分かる。
この声は——
「おはようございます!」
小夜が、小走りでやってくる。
少し息を切らしながら。
手には、何かの包み。
「……朝から元気だな」
「そうですか?」
首をかしげる。
無自覚。
ほんの少しだけ、笑いそうになるのを抑える。
「これ、どうぞ」
差し出される。
「……なんだ」
「朝ごはんです」
さらっと言う。
「お梅さんが作ってくれて……でも量が多くて」
少しだけ、困ったように笑う。
「迅さんも食べてください」
その言葉に。
一瞬だけ、間が空く。
“当たり前”みたいに言う。
まるで——
それが当然みたいに。
「……別にいい」
反射的に、断る。
「だめです」
即答だった。
「だめ?」
「はい」
頷く。
「ちゃんと食べないと」
「……母親か」
「違います」
即否定。
でも少しだけ、頬が緩む。
その表情を見て。
ほんの一瞬。
心臓が、妙に動く。
(……なんだ今の)
違和感。
でも正体が掴めない。
「……分かった」
受け取る。
それだけのことなのに。
妙に、指先が気になる。
触れた感触が、残る。
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑う。
それを見て——
視線を逸らした。
---
しばらくして。
境内。
水月が柱にもたれている。
今はもう、大人の姿。
静かな威圧感。
けれど——
「ふうん」
こちらを見て、ニヤリと笑う。
「ずいぶん機嫌がいいじゃないか」
「……別に」
即答。
「朝から飯もらって」
「……見てたのか」
「神だからな」
肩をすくめる。
「で?」
わざとらしく、間を置く。
「どうなんだ?」
「何がだ」
「分かってるくせに」
視線が、刺さる。
逃げ場がない。
「……くだらん」
切り捨てる。
だが。
水月は、笑ったまま。
「自覚ないのか?」
その一言。
やけに、引っかかる。
「……何の話だ」
「巫女の話だよ」
あっさり言う。
その瞬間。
思考が、一瞬止まる。
「……」
何も返さない。
返せない。
「守る対象、ねえ」
水月が、わざとらしく繰り返す。
「ずいぶん楽しそうに見えるが?」
「……見え方の問題だ」
「へえ」
面白そうに目を細める。
「じゃあ聞くが」
一歩、近づく。
「他のやつでもいいのか?」
「……は?」
「同じように、守る対象」
「別の巫女でも、街の人間でも」
「同じ顔で、同じことするのか?」
その問い。
軽い調子なのに——
妙に重い。
「……当たり前だ」
そう答える。
迷いなく。
けれど——
言った瞬間。
違和感が走る。
(……違う)
何かが、違う。
「本当に?」
水月が、笑う。
分かっている顔。
「……」
言葉が出ない。
代わりに。
頭の中に浮かぶ。
さっきの光景。
笑った顔。
名前を呼ぶ声。
手の温度。
——それが、他の誰かに向くところ。
「……」
胸の奥が、ざわつく。
嫌だ、と思う。
理由は分からない。
でも——
はっきりと、嫌だ。
「ほらな」
水月が、小さく笑う。
「それだよ」
核心を突く声。
逃げ場がない。
「……違う」
否定する。
即座に。
「何が違う?」
「……」
答えられない。
でも、認めるわけにはいかない。
「俺は——」
言葉を探す。
「守るだけだ」
それが自分の役目。
それでいい。
それ以上は——
「本当に?」
また同じ問い。
だが今度は、少しだけ優しい声。
「それだけで、あんな顔するか?」
言われて。
思い出す。
さっき。
無意識に、少し笑いそうになったこと。
あの瞬間。
何も考えてなかった。
ただ——
“いい”と思った。
「……」
言葉が、消える。
代わりに。
ひとつの答えが、浮かぶ。
認めたくない形で。
「——ああ」
水月が、静かに頷く。
「やっとか」
「……うるさい」
低く返す。
でも。
もう、誤魔化せない。
「別に悪いことじゃない」
水月は、肩をすくめる。
「むしろ自然だろ」
「……」
何も言わない。
言えない。
ただ——
ひとつだけ、はっきりする。
(……厄介だな)
今までで、一番。
どうしようもなく。
そして——
一番、離せない。
そんな感情。
「どうする?」
水月が問う。
「どうもしない」
即答。
でも。
それは本音じゃない。
分かっている。
自分でも。
「……そうかい」
水月は、それ以上は言わなかった。
ただ。
少しだけ、優しく笑った。
---
その頃。
「迅?」
境内の外で、小夜が首をかしげる。
少しだけ、不安そうに。
「……」
迅は、それを見た。
そして。
ほんの一瞬だけ、目を細める。
昨日よりも。
ほんの少しだけ——
近い距離で。
---
それはまだ、恋とは呼ばない。
けれど——
確実に始まっている。
戻れない形で。
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