第22話「触れてはならぬ名」
夜だった。
神域の空は静かで、月だけがやけに近く感じる。
小夜は一人、社の外に立っていた。
昼の出来事が、まだ胸の奥に残っている。
(あの子の熱……)
(ちゃんと救えた、よね)
手のひらを見つめる。
そこに残る、微かな温もり。
「迷いが減ったわね」
背後から、凛の声。
振り向くと、いつの間にかそこに立っていた。
「凛さん……」
「顔を見れば分かるわ」
ゆっくりと歩み寄る。
「“救えたかどうか”じゃなくて、“どう救ったか”を考えている顔」
図星だった。
小夜は少しだけ苦笑する。
「……まだ、自信がなくて」
「いいことよ」
凛はあっさりと言う。
「自信だけで動く巫女は、いずれ人を壊す」
その言葉は冷たいが、どこか優しい。
「でも」
凛の視線が、ふっと横へ逸れる。
「あなた、知らないままでいいの?」
「……え?」
「迅のこと」
空気が、変わった。
一瞬で。
「……どういう、意味ですか」
小夜の声が、わずかに揺れる。
凛は答えない。
代わりに言った。
「来なさい」
それだけだった。
---
神域の奥。
普段は立ち入らない、静かな場所。
風すらも遠慮するような、重たい空気。
「ここは……」
「記憶が沈む場所よ」
凛は振り返らずに言う。
「巡り巫女だけが知る、“過去の澱”」
その言葉に、小夜は息を呑む。
「迅はね」
凛が、静かに口を開いた。
「一度、“神域を壊しかけた男”よ」
「……!」
心臓が、大きく跳ねる。
「そんな……」
「信じられない?」
凛の声は、どこまでも平坦だった。
「でも事実よ」
一歩、踏み込む。
足元の空気が揺らぐ。
すると――
景色が、変わった。
---
燃えている。
神域が。
空が歪み、地が裂け、黒い瘴気が渦を巻く。
その中心に――
一人の男。
「……迅……?」
今とは違う。
目は虚ろで、何かに侵されている。
手には力が溢れ、抑えきれずに溢れている。
「止めなさい!!」
誰かの叫び。
巫女たちが、結界を張る。
だが――
「無理よ」
凛の声が、隣で響く。
「その時の迅は、もう“人”の側にいなかった」
黒が、爆ぜる。
結界が砕ける。
誰かが倒れる。
誰かが泣く。
そして――
迅が、手を振り下ろす。
その瞬間。
視界が、途切れた。
---
元の場所に戻る。
小夜は息を荒げていた。
「……今の、は……」
「記録よ」
凛は静かに答える。
「消せない過去」
沈黙が落ちる。
重く、深く。
「……どうして」
小夜の声は、震えていた。
「どうして、迅が……」
凛は少しだけ目を伏せた。
「理由は、まだ言わない」
「……!」
「それを知る覚悟が、あなたにあるか分からないから」
冷たい拒絶だった。
だが同時に、それは“試し”でもある。
「でも、一つだけ言うわ」
凛の視線が、小夜を射抜く。
「あなたが見ている迅は、“全部じゃない”」
その言葉が、胸に刺さる。
「優しい顔も」
「守ろうとする姿も」
「全部、本物よ」
凛は続ける。
「でも同時に――」
「壊すことを選んだ迅も、本物」
小夜は、何も言えなかった。
---
「それでも」
凛が問いかける。
「あなたは、あの男の隣に立つの?」
逃げ場のない問い。
巡り巫女としての、審問。
小夜は、俯いた。
拳を握る。
震えている。
怖い。
さっき見た光景が、頭から離れない。
それでも――
ゆっくりと、顔を上げた。
「……立ちます」
声は小さい。
でも、確かだった。
「全部知らなくても、じゃないです」
一歩、前へ。
「全部、知った上で」
凛の目が、わずかに見開かれる。
「それでも隣にいたいって、思えるようになりたい」
その言葉は、未完成だった。
けれど――
逃げていない。
凛は、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を吐く。
「……甘いわね」
「はい」
即答だった。
「でも、それでいいです」
その強さに。
凛は、ほんの少しだけ笑った。
---
「いいわ」
凛は背を向ける。
「なら、見届けてあげる」
歩き出す。
その声は、どこか柔らかかった。
「あなたが壊れるか」
「それとも、あの男を引き戻すか」
夜風が吹く。
冷たいはずなのに、どこか熱を帯びている。
---
小夜は一人、そこに残った。
胸に残る、重い現実。
それでも――
(知りたい)
(全部)
怖くても。
逃げずに。
迅のことを。
「……迅」
名前を、そっと呼ぶ。
その響きは、以前よりもずっと――
深かった。
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