第2話「崩れ去る平穏」2
――その刻は突然訪れた。
まだ猶予があると思っていた。
フェリシアがその光景を目にしたとき、
胸の奥にはそんな思いが複雑なカタチで渦巻いていた。
その影響もあり、「その場を離れる」という判断に一瞬の時間を要してしまった。
現実を受け入れられない状態からふと我に返ると、轟音と共に、先日ルークと再会した〈アーキディウム商業区〉の一角から火の手が上がる。
その火は首都を炎で埋め尽くさんとばかりに広がり始めた。
そんな光景を脳の処理が追いつかず、ただ唖然と眺めていた彼女の脳裏にアナスタシアが浮かんでくる。
瞳に反射する立ちのぼる炎と、空をも埋め尽くさんとする黒い煙を横目に、フェリシアは妹の自室へと駆けていった。
「アナスタシア!アナスタシア!」
たかが数メートルの距離を息を切らしながら走る彼女の心には、もう冷静という言葉が抜け落ちていた。
額には汗がにじみ出ており、
手汗は今までにないほどの量になっている
そんな自分の現状に気が付かないほど、フェリシアは妹の安否に必死だった。
フェリシアは拳を握り、強くドアを何度もノックした。
ドアが開くたかが数秒の時間が、彼女には数分という時間に感じられた。
ゆっくりと開かれたドアの前には、
顔色があまりにも悪い訪問者を心配そうに覗き込むアナスタシアの姿があった。
フェリシアはその姿を確認すると、ようやく正気に戻った。
膝から崩れ落ちるかのようにヘタレ込むフェリシアを見て、
アナスタシアは「姉様?」と心配そうに手を伸ばした。
「大丈夫?顔色悪いよ?」
「大丈夫よ……ただ、ちょっと心配で……」
しかし、フェリシアの安堵も束の間
事態は急変した。
窓の外が異様に騒がしくなり始めたことに気づいた2人は、外の様子を確かめるためにアナスタシアの部屋の奥の窓を開けた。
するとそこに広がっていたのは、
この世のものとは思えない姿をした化け物と、それらと戦闘を繰り広げる兵士たちの姿だった。
しかも、あまり兵士優勢とは見られなかった。
そんな光景を目の当たりにする中、
背後から、警備兵の怒鳴るような大声が聞こえてきた。
「王女殿下方、ここにおられました!」
「カイルス!いったい何が起きているの!」
カイルスと呼ばれた男はフェリシアの問いに対して
答える。
「それは後でお答えいたします!」
「とりあえず今はお逃げになってください!」
「ここももう、そう長くは持ちませぬ!」
カイルスの「こちらです」という声に2人はついていくように部屋を出る。
フェリシアは、不安を隠せなくなっているアナスタシアの手をしっかりと握り彼女の目を見て「大丈夫」と口パクした。
アナスタシアも意図を汲み取り、握られた手を強く握り返した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
次第に火の手は、城全土を囲むように広がり
ところどころ炎が引火し始めたところから、瓦礫が崩れ始めていた。
城中に伝わる振動は激しさを増していく中、カイルスとフェリシア、アナスタシアは1階へ続く階段を下り、
王宮の間の横を通過するように伸びる渡り廊下を駆け抜けた。
外の状況は城内に侵入する異形たちが知らせていた。
おそらく正門が突破されたのだろう。
カイルスの指示に沿い、王宮の間の横をかける2人の耳には、大声で兵たちに命令を下すアレンの声が届く。
2人は不意に走る足を止め声の方を向くと、
王宮の間の正面扉には大量の怪物の群れが押し寄せていた。
「止まらないで!」と言うカイルスのいつにも無い怒号に急かされ、2人は再び走り出し、そのまま王宮の間の横を後にした。
3人の逃亡は容易ではなく、
行く手には侵入してきた怪物が、倒れた兵士をむさぼり食う生々しい音や、
襲撃により、フェリシアとアナスタシアの心からは完全に冷静さと余裕は消え去っていた。
今はただ、周囲を警戒しながら先導して突き進んでくれるカイルスについていく事しかできなかった。
暫く移動した一行は、城の裏手に位置する避難用の地下シェルターへ続く扉の前にたどり着く。
無数の鍵で閉じられた錠を手際よく開けると、カイルスは2人をしたへ行くように告げた。
「王女殿下方、私の同行はここまでです」
「どうか無事にお逃げください」
そういいながら、カイルスは2人を急かすように扉の前まで促す。
だいぶ走ったせいか、3人の息は上がり
恐怖や混乱によりフェリシアとアナスタシアの足は疲労を訴えていた。
ゆっくりとしか動けない2人をカイルスは肩を貸し、
先頭を行くフェリシアが扉の縁に手をかけさせた次の瞬間の出来事だった。
鈍い音とともにフェリシアは、背中に何か生温かいものがへばりつく感覚を覚えた。
嫌な予感とともにゆっくりと振り返ると、顔から身体にかけた左側をどろっとした赤い液体で濡らしたアナスタシアと、
化け物に胸を貫かれるカイルスの姿が目に映る。
胸部からは血が滝のように溢れ出て、
鉄の匂いが鼻の奥を刺激する。
目の前に広がる地獄を前に、フェリシアの頭は考えることをやめた。
頭の中が真っ白になり、身体も何も動かない。
条件反射のように涙が滲む目に歪んで映る返り血を浴びたアナスタシアも、現状を理解できておらず、完全に金縛りにあったかのように硬直しており、
目からは光が完全に失われ、焦点が合っていない。
そんな2人に僅かに残る意識の中、
カイルスは声をかける。
「どうか……お逃げ、を……」
口から血を吐きながらそう告げると、
カイルスは、胸を貫く触手のようなものを
残された全ての力を使いしっかりと鷲掴みにする。
「早く……!!」
その大声に反射するように、
フェリシアは、目に涙を滲ませながら
アナスタシアの手を取りやっとの思いでその場を後にする。
2人が扉の向こうへ走っていく姿を見届けると、
カイルスは膝から崩れ落ちる。
怪物は胸から触手を引っこ抜くと、もと来た道を何も考えていないかのように戻っていく
朦朧とする意識の中、
カイルスは「よかった……」と言葉を零すと、頭から地面に力が抜けるように倒れ込む。
「生き……て……」
「貴女、方は……我ら……の――」
言葉をすべて言い切る前に
彼の目から光は消えた。




