第36話「ほぐし庵の冬、心のぬくもり」
都会の冬は冷たく乾いていて、空気の隙間からすっと寒さが染み込んでくる。けれど、「ほぐし庵」の中には、ほのかなアロマの香りとともに温かな空気が漂っていた。
陽菜は窓の外に舞い散る粉雪をぼんやりと眺めながら、和也とのデートの余韻に包まれていた。あの日、繋いだ手の感触。優しく見つめられたときの胸の高鳴り。思い出すたびに心がふわりと浮かぶようだった。
「……よし、今日もがんばろう!」
気合を入れ直して準備を整えると、ちょうど扉のベルが軽やかに鳴った。
最初の患者は、佐藤信次だった。厚手のコートを脱ぎながら、少し不機嫌そうな顔をしている。
「今日はまた冷えるな。腰がガチガチだ。」
「佐藤さん、いらっしゃい!寒い日は無理しないでくださいね。」
施術ベッドに腰掛けた佐藤は、ふと陽菜をじっと見つめた。
「……お前さん、最近なんだか顔つきが違うな。」
「え?そ、そうですか?」
ドキリとしながらも、誤魔化すように笑う陽菜。しかし、佐藤は見逃さない。
「人ってのは、心がほぐれると表情にも出るもんだ。……いいことでもあったか?」
「うーん、まあ……そうかもしれませんね。」
曖昧に答えるが、自然と頬が緩んでしまう。佐藤は小さくうなずきながら目を閉じた。
「……それならいい。幸せってのは、そんな小さな変化から始まるもんだ。」
その言葉が、ふと心に残った。
夕方、休憩中にスマホを確認すると、和也からのメッセージが届いていた。
「今日は定時で上がれそうだから、時間があれば少し会わない?」
その短いメッセージに、陽菜の心は跳ね上がる。返信を打つ手が少し震えるほどだった。
「もちろん!お店が終わったらすぐに向かうね!」
仕事を終え、「ほぐし庵」を閉めた後、急ぎ足で駅前のカフェへ向かった。小さな窓際の席で和也が待っているのを見つけた瞬間、胸が温かくなる。
「お疲れさま、陽菜さん。」
「和也さんも、お疲れさまです!」
お互いに少し照れながらも、自然と会話が弾んでいく。温かいコーヒーの湯気が、二人の間の距離をほんの少しだけ縮めてくれる。
ふと、和也が真剣な表情で口を開いた。
「……あの日、温泉街で陽菜さんに伝えた気持ち、あれは本気なんだ。」
陽菜の心臓がドクンと鳴る。
「俺、今まで仕事ばかりで自分の気持ちに正直になれなかった。でも、陽菜さんと過ごす時間が、俺にとってどれだけ大切か気づいたんだ。」
和也のまっすぐな瞳に見つめられて、陽菜は胸がいっぱいになる。自分もずっと感じていた想いを、今こそ伝えるべきだと勇気を出した。
「私も……同じです。和也さんと一緒にいると、自分らしくいられる。あなたと過ごす時間が、すごく特別で大切なんです。」
言葉にすると、心がふわりと軽くなった。和也の表情が少し和らぎ、優しく微笑む。
「陽菜さん……これからも、俺の隣にいてくれる?」
陽菜は大きく頷いた。
「もちろんです。」
二人は静かに手を取り合い、心の距離が完全に近づいた瞬間だった。
数日後、「ほぐし庵」にはいつもの日常が戻っていた。しかし、陽菜の中では確かな変化があった。和也との関係が一歩進んだことで、心の中に自信と温もりが芽生えていた。
「おはようございます、陽菜さん!」
玲子が明るい声で入ってくる。
「玲子さん、おはようございます!今日も元気そうですね。」
「ええ、おかげさまで!……それにしても、やっぱり陽菜さん、なんだか幸せオーラ出てますよ。」
陽菜は思わず笑ってしまう。
「そうかもしれませんね。でも、私もやっと自分の気持ちに素直になれたんです。」
玲子は微笑みながらうなずいた。
「それが一番大事なことですよね。」
施術をしながら、陽菜はふと思う。
人の心のコリは、体のコリと同じように、知らないうちに溜まってしまうもの。でも、大切なのは、少しの勇気と誰かと繋がることで、心も体も軽くなれるということ。
「……よし、今日もがんばろう!」
陽菜の声は明るく、「ほぐし庵」の中に温かいエネルギーを満たしていった。




