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ほぐしの時間 - あなたのコリと人生を聞かせて  作者: 鍼野ひびき


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第37話「ほぐしの時間 - 最後のほぐし」

都会の片隅、小さなマッサージ院「ほぐし庵」に、やわらかな春の日差しが差し込んでいた。店先の鉢植えに咲いた小さな花が、そよ風に揺れている。陽菜は、いつもと変わらぬ朝の準備をしながらも、心の奥に少しだけ特別な感情を抱えていた。

——今日は田中さんが来る日だ。

彼との会話、ふとした仕草、笑った顔、真剣な眼差し。それらすべてが心の中で温かな記憶として重なり、気づけば胸がふわりと膨らむようになっていた。

「おはようございます。」

ドアのベルが鳴り、低くて落ち着いた声が店内に響く。田中和也だ。いつものスーツ姿だけど、どこか柔らかい雰囲気がある。陽菜は思わず笑顔になる。

「おはようございます、田中さん。今日もお疲れですか?」

「ええ、まあ。最近は肩だけじゃなく、心も少し凝ってるかもしれません。」

冗談めかして言う田中に、陽菜は軽く微笑んでベッドへ案内する。施術が始まると、いつものように穏やかな会話が続いた。仕事の話、趣味の話、時には無言のまま、ただ静かに流れる時間。

しかし、今日はどこか違っていた。田中の肩に手を置いた瞬間、陽菜は感じ取った。彼の心の奥に、言葉にならない何かが潜んでいることを。

「田中さん、最近何かありましたか?」

その一言に、田中は少しだけ戸惑ったように目を伏せた。

「実は…来月から地方へ転勤することになりました。」

陽菜の手が一瞬、止まった。心の奥に小さな波紋が広がる。しかし、すぐにいつもの笑顔を取り戻して、優しく肩をほぐしながら答える。

「そうなんですね。新しい場所でも、田中さんならきっと大丈夫ですよ。」

言葉は軽やかに出たけれど、胸の奥が少しだけ締め付けられる感覚があった。施術が終わる頃、田中は静かにベッドから起き上がり、陽菜の目をまっすぐに見つめた。

「桜井さん…今まで、本当にありがとうございました。」

その瞳には、感謝だけでなく、何かもっと大切な感情が込められているようだった。でも陽菜は、いつものように明るく笑った。

「こちらこそ、田中さんとお話しできて楽しかったです。お体に気をつけてくださいね。」

田中は深く頷き、静かに店を後にした。

その夜、陽菜は眠れなかった。何度も田中の言葉と瞳が脳裏に浮かぶ。心の奥に隠してきた想いが、抑えきれずにあふれてくる。

——このまま、終わってしまうの?

気づけば、陽菜は走り出していた。薄暗い街を駆け抜け、田中のアパートへと向かう。ドアの前で立ち止まり、息を整える間もなく、ドアベルを鳴らした。

驚いた表情で出てきた田中に、陽菜は勢いよく言葉をぶつけた。

「田中さん!行かないで、なんて言えないけど…私、あなたが好きです!」

沈黙が流れる。しかし、田中はゆっくりと微笑んだ。そして、陽菜に一歩近づき、そっと手を取る。

「俺も、桜井さんが好きです。ずっと伝えたかった。でも、怖くて…」

陽菜は涙をこらえきれず、笑いながら言った。

「私も同じですよ。でも、言えてよかった。」

その瞬間、二人の距離はすべての不安を超えて、ひとつに縮まった。田中は陽菜を優しく抱きしめ、静かに囁く。

「転勤は、断りました。もう自分に嘘をつきたくなかったから。」

驚いた陽菜は、彼の胸に顔を埋めたまま、笑い声を漏らす。

「本当に、バカですね…でも、うれしい。」

数ヶ月後、「ほぐし庵」では変わらぬ日常が続いている。しかし、そこには少しだけ新しい空気が流れていた。田中は時々手伝いに来て、患者たちと笑顔で話している。

「肩こりの治療なら、ここが一番ですよ。」

そう言う田中に、陽菜はからかうように微笑む。

「じゃあ、私の心のコリも、ずっとほぐしてくれますか?」

田中は優しく頷き、二人は穏やかな笑顔を交わす。

ほぐし庵の小さな空間で、また一つの物語が優しく結ばれた。人々の心と体をほぐしながら、陽菜と田中もまた、自分たちの人生を少しずつ、優しくほぐしていくのだった。

——おわり——


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